私自身の“晴れの日”、長い旅の果てに辿り着いたその岬はどんよりと曇空。あちこちに雪がたっぷり残っている。
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そこは、まだ冬だった。
1982年春、私は春休みを待ちきれなかった。
卒業式前日、上野駅で夜行列車に乗り夜明けの青森へと向かう。友が晴れの舞台で卒業証書を受け取っている頃、私は青函連絡線の甲板で海を見ていた。
函館から再び急行列車に乗りさらに北へ。さすがにその距離では急行とは名ばかりで、体感速度は限りなく各駅停車。その長い旅の終着駅は稚内。言わずと知れた国鉄最北の駅である。
その稚内の街にはノシャップという名の岬がある。
野寒布岬と書いてノシャップ岬。日本最北の土地にありながら、岬として日本最北端の肩書きを持たぬ哀れな二番手は、その看板一つとっても悲哀が感じられる。
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りっぱな碑が立つ最北端宗谷岬とは、同じ寂しさにもどこか異なる趣がある。ちなみに北海道には納沙布と書きノサップと読む別の岬もあるが、あちらは根室半島。そちらには本土最東端の地という肩書きがあるらしい。
ところでこのノシャップ岬、岬には欠かせない灯台も一応存在するのだが、実はその姿もりっぱなものではなかった。
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最北の地には、最北の基地もある。
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その基地内から北方を見張るレーダーを遮らないように、ノシャップ岬の灯台はやや低目に作られているのだとか。誰を睨んでいるのか、その厳つい目に灯台さえ身を縮めているのだという。
さて、その哀愁漂う岬も灯台もましてや自衛隊の基地も、私の本当の目的地ではなかった。私はさらに本当の目的地へ向かう。
ノシャップ岬からバスに乗り日本海側を海沿いに南へと下る。坂ノ下というありふれた名のバス停で降り路地を抜けると、そこに誰もいない海岸が広がった。私はその海岸を無言で歩き始める。
抜海(ばっかい)の海
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時に色々なことを考えながら、時にはぶつぶつ独り言を言いながら、また時には一目も気にせず大声で好きな歌を歌い、そしていつしか無心に、ただただその何もない約10キロの海岸を二時間ほど歩くのだ。
何もないその海岸をただ歩く為にそこにやってきた。知る人ぞ知るその抜海の海岸をただただ歩く為に…。
それこそ、知る人ぞ知る“抜海ツアー”である。
しばらく歩きふと振り返ると、バス停のあるありふれた町もすでに小さくなっていた。
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ちっぽけな一眼レフのちっぽけなレンズには広すぎる。だがこの寒々とした広大さをどうしてもフィルムに収めたくて、角度を変え続けて撮ってみる。
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海ぎりぎりを歩いたり、立ち止まって蝶貝を探したり、ちょっと小休止に座ったり、そのツアー参加者はみな様々な行動を取る。
誰かと共にツアーに出ても、二時間何も話さないなんてこともよくあった。気がつくと友は遠い彼方を歩いていたりなんてことも…。
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そんな時、よく人との距離についても考えながら歩いていた。
学校や仕事場などで誰かと一緒になったとする。そんな時どこか落ち着かず、気がつくと何かを話さなければとつい話題を探しがちにさせる人というのがいるものである。
その一方で、例えば何時間も同じ場所にいたとしても、沈黙がまったく気にならない相手という人も居るものだ。
お喋りの弾む相手が、親しい仲とは限らない。
…なんてことをよく考えながら、色々あっちこっちと道を変え歩き続けた。ふと丘の上に登り、遠い先を見渡してみる。
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波の数を数えたこともあった。波の数など数えても何の意味もないのに、海に向かって座り、ぼーっと波を見つめ数えてみたこともあった。いくつまで数えたかも忘れたが…。
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さて、果てしなき抜海の海岸がその様相を変え、そろそろ抜海の岬に近づこうという辺りでツアーコースは海を離れる。
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海からちょっと入ると国道があり、国道沿いに北へ少し戻ると抜海駅があるのだ。稚内駅から南へ二つ目の小さな駅である。その駅に向かう頃には、列車の時間もあり少し時計を気にし始める。
とはいえ、歩くペースを変えるほどではない。結局最初から最後までマイペースなツアーである。
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寡黙な男同士、抜海の静かなツアーはそろそろ終点に辿り着く。
さてツアーを終え鈍行列車に乗り再び稚内駅へ。そして駅から再びノシャップ岬へとバスで向かう。厳密に言えばノシャップ岬に程近いと或る宿に向かうのだ。
北へと走るバスの左手に、やがて自衛隊の基地が広がり始める。
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その自衛隊のゲート近くでバスを降りる。
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バス通りの先には、ノシャップ岬の灯台が見えている。
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路地を覗けば、すぐ裏の通りは宗谷湾の海に面している。
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自衛隊の基地と宗谷湾の海に挟まれたそんな恵比須という町。
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そこに、本当の目的を終えたはずの私の、真の目的地の宿が佇んでいた。
民宿かわばた…。
Winds Inn KAWABATA...。
風の宿かわばた…。
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「おにいちゃん、ただいま〜っ!
ジャマイカが東京から帰ったよ〜!」
さて、今夜はベロンベロンになるまで飲むか。高校も卒業したことだし…。

































1982年11月。
大学を1年留年していたのだが、
いよいよ就職することを決め、
長い髪をばっさり切って、
11月1日の就職試験を受けて、
翌年四月には九州から東京に上京することが
決まったばかりの頃だった。
自由な学生時代のしっぽを引きずり、
ひとけのない北海道を、
ただあてもなくひとりで漂っていた。
坂下から抜海までの、
ひたすら、何もない、
荒涼とした風景の中の
「旅」も、
そんな出来事のひとつ。
40半ばとなった今、
あの海岸を歩いたら、
どんな感慨を抱くのだろうか。
映太郎さんのアップした写真を見て、
20年ぶりに、
北を旅したくなってきました。
今はどうなってるんでしょうかねぇ。
20数年という時を経て変わった自分自身の様に、あの地も変わっているかも知れません。でも、20数年を経ても変わらぬ自分自身の様に、あの地も変わってないかも知れません。
なんか味のある旅ですね〜。
1982年は…自分小学校卒業でした!(爆)
んでも、カメラ持って撮っていたような気がします。
仲良しな友達を別々な中学校になるのが悲しかったような記憶しかないです。
あらためて思い返すと、卒業というイベントには特に何の思い出もないなぁ。なぜだろう…。
学校が面白くなかったのかなぁ。
別れを惜しむ友…なんて記憶もないしなぁ。
なんだかなぁ・・・
どこかですれ違っていたかも知れませんねぇ。私も延べにして4〜50日は泊まっていたことになりますが、そこで出逢った人、そこで飲み交わした人すべてを覚えているわけではありませんし…。
ちなみに今年の10月8日の日曜日、立川のライブハウスで集まり、おにいちゃん、クエちゃん、マサミさん、他にも色々な方が集まり、久しぶりの再会を楽しむことができました。
そこでは不思議な感覚を覚えました。みんなそれぞれ部分的には老けていて、(って云ったってそりゃみな揃ってのことで当然なのだけれど、)でもみな一言言葉を交わすと、昔と何も変わらない。それは懐かしい想いに浸った夜でした。おにいちゃんお歌も聴けましたしね。
ところで、風の宿はもうないそうですね。
でも、結局あれは単なる場所でしかありません。その場所を失っても、その場で出逢えた人との思い出は消えることはないのだし…。
それにしても、あの夏は熱かった。
四十余年の私の人生において、
あの夏ほど熱い夏はほかにない。
きっと、これからもずっとずっと…。
妻と出会い、
長女は風子。次女は夢子。
僕の中では、まだまだ健在ですよ♪
おにいちゃんからも、元気そうな年賀状も届きますよね?
ジャマイカさんって、名前だけ覚えています^^;
すみませんm(_)m
元気を取り戻せそうな記事を
ありがとうございます!
やはり皆さん、あの衝撃的な夏は忘れられませんよね。
とはいえ、忘れられない思い出を絶対忘れたくなくて、あの夏の思い出を記事にしてみました。
あの日、あの夜、あの夏に、あの場所で刻まれた大切な想い出を、ふと誰かの胸に蘇らせることができたのなら、私も嬉しく思います。記事にしてよかった。
・・・・・、おにいちゃんが早くブログ起ち上げてくれればなぁ。
同時期なら赤シャツやウォーターマン、A子さん、クエッティングなんかが世話してくれた頃でしょうか。
そのうち同窓会でお会いできることでしょう。
78年には、たしかプレスリーがいました。
すーたんにはマリア・カラスのカセットなんかいただきましたよ(^^) お元気かしら。
同窓会、わくわくします。いつごろありそうですかね(^^)