「地球」にとっての人の立場

2005年11月03日
 すべての生命には限りがある。それぞれの長さに違いはあれ、限りのない命に恵まれたものは未だ存在せず、人と言えども例外ではない。

 しかし進化の過程において、人だけは “死” の存在―どこか矛盾した表現ではあるが― “死という概念” を察知し、そして決して中を窺い知ることのできない世界の “扉” に、恐れを抱き始めることとなる。
 


 他のあらゆる生物が全く意に介さぬ “死” というものに、人が嫌悪を抱いた時、人が人となった瞬間だったのではと思う。人という種の始点として考えれば、シャニダールの闇に眠る仲間に、 不意に “ふと” 哀れみを感じ、まさしく “思わず” 花を手向け時が、その瞬間かも知れない。

 厳密に言えば、シャニダールに眠る人々は、進化の樹系図において若干の筋違い枝違いという見解もあるらしい。だが、洞窟が異なり種が異なったとしても、異なる島の “百人目のヒト” よろしく、長い年月から考えればその程度の違いはどうでもよい。



 年月とともに人は “死の扉” を封じる手立てを執拗に求め始め、永遠の命に近づこうと足掻き続けている。だがテロメアの呪縛は解けず、死を遠ざける呪文は見つからない。

 しかし、皮肉にも人の求める理想の姿を、ある特殊な命の形の中に見い出す事となる。人がもっとも羨む命の仕組みを持ち合わせ、テロメアの呪縛からも完全に解放された存在。

 奇しくもその存在は、人を死に急がせる呪文を唱え続けるガン細胞だった。人がもっとも理想とする姿。“死” の存在を忘れるほど増殖し、その地で繁栄し続けるガン細胞。

 彼らはテロメアの呪縛とは無縁に生き続け、ひたすら子孫を増やし、他の存在を永遠に侵食し続ける。



 そんな彼らも唯一 “死” を受け入れざるを得ない瞬間がある。ガン細胞が生まれ育ってきた彼らの故郷、つまりは彼らがその病いを発症させた生命が “死” を迎える瞬間である。 

 他の存在を顧みないガン細胞は、自らの存在する生命を侵食し尽くし、結局自らの永遠の時間をも失うことになる。

 “死” という存在にまったく異を唱えようとしない地球上の人以外のあらゆる生命にとって、人の増殖は永遠の利と時を求め増え続けるガン細胞と何ら変わらない。

a Planet Earth 人はいつしか自らの時間だけを求め、他の存在を顧みなくなってしまった。いつしか、地球のあらゆる生命にとって忌み嫌われる存在となっているのだ。

 たった今、人が一瞬にして絶滅したとしても、他の者たちへの悪影響など何も残らず、それどころか地球は調和に満ちたバランスを取り戻すとしか思えない。

 そう考えても、やはり地球にとって、人はガン細胞以外の何者でもないとしか考えられない。
posted at 2005/11/03 08:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑題雑想
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