体罰賛否とはまた別の違和感

2005年08月24日
 残念ではあるがその言葉が、すべてに対する学校の姿勢を物語ってしまっているように思える。

≪駒苫暴力発覚、優勝旗返還も覚悟…≫
 …同校長は「優勝旗返還の動きも出るかもしれないが、どんな処分でも受け入れる」との見解を示した。
(Yahoo/日刊スポーツ 2005/08/23 09:56)

 何処からかの処分を待ち、もしやの何かを期待し、あわよくばという校長の想いが、その言葉に感じられてしまう。返還せよと言われたらではなく、自ら返還するのでは…。
 


 私は基本的に体罰には賛成である。

 何か大切なことを、痛みにより知らしめる。その瞬間本人には例え判らなくとも、そのうち必ずや知るはずと考えている。

 例えば、ストーブの近くで赤ん坊が遊んでいたとする。口で説明しても理解できないだろうその赤ん坊に、そのストーブの熱さや火傷の痛みをどう伝えるか。赤ん坊には失礼ではあるが、犬でも猫でも大して変わらない。

 その先の未来に控えるだろう避けるべき状況を、偽の痛みで教える。赤ん坊ならば、例えば火傷しない程の熱さを体験させ、犬猫には鼻面を指で弾き偽りの痛みを感じさせる。そして動物的にその状況を避けさせるのだ。

 絶対的な反対論者なら、もう数年で成人になりうる中高生には言って聞かせればよいだろうなどと言われそうであるが、言葉が理解できないとすれば、赤ん坊や犬猫と何ら変わらないだろう。

 ちなみに、赤ん坊を犬猫と一緒くたにするなんてとも言われそうであるが、私は犬猫を赤ん坊と一緒くたに扱っている。どこか同じでも、考え方はまったく違う。



 とはいえ、関係ない選手がやはり可哀想でならない。
 
 この全体責任という考え方、これは日本独特のものなのだろうか。こういった事件が起きそれが表面化する度、同様の処分が下されるが、この手の処分は本当に必要なのだろうか。

 全体責任という言葉のその全体というモノに含まれるというのは、関係ない選手にとっては運の良し悪しなのか。

 ふと、生物の免疫システムを思い浮かべる。生物学的なレベルでの、自己と異物の区別の境界線をどこにひくのか。

 全体責任という考え方を拡大解釈すれば、各都道府県単位のその地域の高野連組織が咎められることさえありえるのに、結局はその境界線はいつも学校の敷地の境界線上にひかれる。

 その境界線の塀の内側にたまたま居合わせた、何も関係ない他の選手は、やはり運が悪いとしか言いようがないのだろうか。

 まったく…、何なのだろう。
 体罰に賛成しても反対しても納得はいかないというのは。納得いかないのは、その中途半端さだろうか。

 必要を感じて叩いたのなら、部長がそう言えばよし。
 痛いと思ったのなら、本人がそう訴えればよし。
 不適切と思ったのなら、校長がそう謝ればよし。
posted at 2005/08/24 00:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 報道批評
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