人工知能はチコタンを歌う?

2005年08月02日
 ふと目にした映像に、様々な記憶は走馬灯のように蘇り、ブラウザのタブは繁殖を重ね、きまぐれな想念は子孫を繁栄させ、やがて辿り着いた進化系統樹の果てに現れたサイトの主役は、一曲の合唱組曲だった。

CD「児童合唱〜南安雄作品集」CD 児童合唱〜南安雄作品集
合唱組曲「チコタン」
―ぼくのおよめさん―他

 チチチ チチチチ チコタン♪
  なんで チコタン 思い出したんかな♪
 


 NHKアーカイブスが懐かしい映像を発掘してくれたのがきっかけだった。まぁそれが本来の番組の趣旨なのだから、まんまとハマった一視聴者とも言える。

 少々鮮やかすぎる北海道の昭和の空に、機関車C62が重たそうな煙を吐きながら走る。
 古い映像独特の微妙にズレたコントラストのせいか、青い空はなぜかこってりとして見え、道南の森の緑は深く、機関車の黒はまさしく重々しい。それぞれの色が年月の分か少しだけ沈み、全体の見栄えは被写体のごとくどっしりとしたものだった。

 年齢的には、その黒く重厚な被写体に乗った経験を懐かしむ世代ではない。だが大井川などでの動体保存機関車を見るため聴くために、当時最高級機種だったソニー生録デンスケD5を担ぎ、その雄姿を息をこらえ眺めた経験はある。

 懐かしさという言葉。最近よく耳にし、よく口にするこの言葉。
 いつか見た物、はるか昔に目にした光景、ふと何かを思い出す匂い、忘れかけていた何かを思い出したちょっとした出来事など、人はそんな瞬間にこの言葉を使う。だがその使い方は人それぞれになりつつある。



 おじいちゃんが古い建物を見て「懐かしいなぁ」とため息をつく。そこに居合わせた孫は、それが“懐かしい”という物なのかと、その形容表現を覚える。
 おじいちゃんは東海林太郎を“懐かしい”と形容し、看板建築を“懐かしい”と言い表し、ベイゴマを“懐かしい”と笑う。
 時に孫はそれらが“懐かしい”ものだと学習する。赤い花を見たお母さんに「ほら見てごらん、“赤くて綺麗”な花よ!」と言われた女の子が、“赤”という形容と、“綺麗”という表現を覚えるように。

 赤い花を見て“赤い”という形容表現を覚えるのは間違いではないが、“懐かしい”という表現はそうはいかないはずである。にも関わらず、最近の昭和レトロに集う世代はどこか微妙にズレている気がしてならない。

 実は私だって、実際に乗っていたわけでもない機関車を見て懐かしいはずはないのだ。だがその光景に懐かしさを感じてしまう。その懐かしさは本当の懐かしさなのか。

 それは、“懐かしい”と感じ表現する“懐かしさ”のようでもあり、でもよくよく考えれば、“いわゆる懐かしいモノ”と言われる物を目にして、「これって“いわゆる懐かしいモノ”って言われるモノだね」…などと、“懐かしさ”を表現する。おじいちゃんの言葉を真似っこする孫のように。

 お台場あたりにある昭和レトロ調の売り場を一回り歩けば、そこで聞えてくる「懐かしいねぇ!」という感嘆詞も、それぞれの世代で微妙に異なる言葉であることがわかるはずである。平成生まれの子供たちが、「懐かしい〜ねぇ!」などと騒いでいるではないか。
 そこに生じる微妙なズレは、世代ごとにズレてはいるものの、結局はそれぞれの世代にいつも存在していたものなのだろう。



 人の感情表現なんて、結局はそんなモノである。
 「人工知能は感情を持つことができるか?」などという議論もあるが、おじいちゃんの懐かしさを誤解して覚え、それがいつのまにかその人の懐かしさに静かに変容していくことを考えれば、人工知能に感情表現を教えることだって簡単なことに思える。人工知能をおじいちゃんやお母さんと散歩させればよいではないか。

 母親が「綺麗な赤い花」と表現したモノを、人工知能は“赤い綺麗な花”と認識し、おじいちゃんが「懐かしさに涙が出るほどだ」と表現したモノを、人口知能は“涙が出るほどに懐かしい”と記憶する。

 まぁ厳密に言えば、人工知能に必要なのは、そこそこの忘却なのかも知れない。どうでもよい人が表現した感情表現はなんとなく忘れ、愛する人が教えてくれた表現は決して忘れず、例え忘れたとしても、ふと思い出す。
 このところあまり耳にしなくなってしまった“ファジー”なんて概念がその辺りにほどよく曖昧さを混ぜ合わせることができれば、人工知能の実現も、サバン症候群の治療も、ADDもOCDも一瞬にして解決するかも知れない。


 
 マイクロソフトが次世代ブラウザにはタブブラウザを導入するとかしないとか…。私はいつからかタブブラウザを使っているのだが、ふとタブが溢れかえっているのを見ると、自分の好奇心の曖昧さと一貫性の無さが情けなくなる。
 気が付くと最初に調べていたことなどどこかに忘れ、まったく違うことを検索していたりするのだ。

 まったくADDな“多動人”は、ネットにおいても意識はたちまち漂流を始める。そんな人間が書いている記事であるから、書き出しと書き終わりの題材がいつのまにかズレている。方向を修正する必要がありそうだ。

 なんで こんな記事 書き出したんかな♪

 そうそう、どうしてチコタンのメロディーを思い出したのか。
 機関車が走る姿とその汽笛の響きに、小学校の体育館で見た映画「父ちゃんのポーが聞える」を思い出したのだった。すると記憶はその体育館に佇み、毎日毎日練習した「チコタンの合唱曲」がどこからか聞えだした。

 映画「父ちゃんのポーが聞える」に関しては、こちらのサイトが詳しく書いていらっしゃる。

≪汽車に魅せられて≫⇒リンク
 同サイト―湖畔を走るC56⇒リンク

チコタンの明るい詩を楽しみ、悲しい結末を痛いほど味わいたくなった方は、以下の情報を検索すれば歌詞を掲載しているサイトが見つかるだろう。だが、どうやら“こっそり掲載”らしいので、どうかこっそり覗いてあげて頂きたい。

こどものための合唱組曲
『チコタン』〜ぼくのおよめさん〜
作詞/蓬莱泰三 作曲/南 安雄

 ででで なんで こんなまとめに なるんかな♪

 そんなことはまったく判らんが、こんな記事は人工知能にはもっとも難しいことかも知れん。もっとも、よそ様のブログを覗くと初級人工知能が投稿したのかと思えるようなパターン化されたブログ記事も多く見受けられる。

 人工知能がブログを開設する日は、もう疾うに訪れているのかも知れない。
posted at 2005/08/02 04:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 放送批評
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