色を見ず絵を見ず絵画を見る

2005年07月20日
美術館で絵を見る時のお話である。

ある絵画の一部分さて何の絵か?

まったく…、絵に近づき過ぎるというのは、実に野暮なことかも知れない。
 
この独特な視線の角度、意外と判りやすかったか。画家の名前や絵画のタイトルまでは知らなくても、結構多くの方が全体像は浮かんだことと思う。



パステル画教室に通っていた知り合いが、以前よくグループ展の案内状を送ってくれた。

銀座辺りの会場には、教室に通う人々がそれぞれ自慢の作品を二三点ほどずつ出品しあい、合計するとかなりの数の展示数になる。自分にはない絵心というものがそこに並んでいるのを見せられると、毎回微かな悔しさを感じさせられる。そのせいか、私は絵の前に立つとつい無意識に近づいてしまうクセがあった。

この絵は、どうやって描いたのだろうか。このタッチはどうすれば描き出せるのだろう。幾ら近づいても幾ら睨みつけても、幾ら考えてもそんなことは判る訳はないのに、気がつくと30センチほどまで近づいて眺めている。

「いやん、そんなに近づいて見ないでよ!」

いつもそう言われ我に返る。描いた本人にとってその視線は、自分の体を舐め回すようなモノに感じていたのかも知れない。その言葉はいつも必ず恥ずかしそうに聞こえた。

そこで、その時、私は絵を見ていなかったのだろう。

そんな経験を踏まえ、ある頃からなるべく意識的に離れるように心がけている。とはいえ、ある頃から美術館など大して行ってない。経験は今のところあまり生かされていない。



誰かはそれを“木”で例えたけれど、私はふと絵を例えにしてみただけである。

木を見て森を見ず

 色を見て 絵を見ず
  絵を見ても 絵画を見ず
   絵画を見ても 物語を見ず

先の記事での福井晴敏氏の“ダメダシ”と“ダメムシ”のことが尾を引き、芸術作品の見方捉え方として考えてしまったからである。まぁ、絵に限らず写真にしたって小説にしたって映画にしたって、同じことが言えそうであるが、元々芸術鑑賞に限った言葉ではない。

様々な状況に当てはまる言葉である。

≪Yahoo Dictionaries≫
「木を見て森を見ず」
大辞泉―小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。

大辞林―事物の末梢的部分にこだわりすぎて、本質や全体をとらえられないことのたとえ。

“猪突猛進”とよく言われる。レースに出る競馬馬のようでもある。競馬馬のように目の前しか見えず、またいざ目の前に何か見えた時は、イノシシのようにまっしぐらで近づいてしまうのだ。そしてイノシシのごとく後には下がれない。

いつの頃からかそんな自分の傾向を自覚し、ふと気づいた時には後に下がるようにしているのだが、結局はいつも手遅れなのだ。イノシシはおつむが足りないようである。時にそれは“猪突盲進”でもあり、“猪突盲信”なのかも知れない。

まぁ一旦振り返ったら、イノシシの勢いで美術館の後方の壁を突き破りそうである。そして遥か彼方にまで辿り着きもし振り返ることができるなら、そこに飾られた一枚の絵画もまた、まったく違ったものに見えるのかも知れない。

耳飾の少女真珠の耳飾の少女
 別名―青いターバンの少女―
  by ヤン・フェルメール

その絵画に大意はない。ただ美しいと思ったので飾ってみただけである。ってか、クイズ形式にするなら、今度はもっと難しいモノにしたほうが良いのでは…と思う。
posted at 2005/07/20 03:46 | Comment(0) | TrackBack(1) | 雑題雑想
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Tracked: 2005-07-20 23:41
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