鏡を挟み睨み合う二者の憎悪

2005年07月14日
トラバを辿りふと他人のブログにコメントを残したものの、そのコメントネタが惜しくなって取りに行った。あげくそれに言葉を加え、結局自分のブログに貼り直すこととした。トラピンを送りキッカケを作ってくれたのはKOYO氏のブログである。

ブログ「DESIGN HUB」⇒リンク
記事「July 11, 2005 戦争と作品」⇒リンク

で、わざわざ取り返しに行った話は、先日夕方再放送さた「世界ビックリ仰天ニュース」で紹介されていた海外のある誘拐事件の話。遊びに出かけたキャンプ場で娘を誘拐された一人の母親の執念の物語である。
 


その家族は訪れたキャンプ場で幼い末の娘を地元の変質者に誘拐されてしまう。

娘を奪われた母は、証拠不足で手を出せぬ警察に嫌気をさし犯人にたった一人立ち向かう。事件後の脅迫電話がきっかけで容疑者は割り出されるのだが、証拠不十分で警察はそれ以上手を出せない。

そんな中、執念ありあまる母親を夫は理解できず家族には溝が生じ、理解できない夫はやがて他の二人の子供を連れ彼女の元を去ってしまう。

一人残された母親は意を決し容疑者の自宅を訪ねる。執拗に追求する彼女の執念に犯人は動揺し、自宅に再度電話をして偽装工作を試みるが、その電話がきっかけで警察に逮捕される。皮肉にも、末の娘の遺体は彼女の尋ねた容疑者の自宅の冷蔵庫からその一部が発見される。

だが、男は裁判を待たず自殺してしまう。待ち望んでいた犯人逮捕も、すべてを失った母親には何の慰めにもならない。その途方も無い虚しさに、彼女はふと一人の女性に会いに行く。犯人の母親だった。犯人とはいえ、一人の息子を亡くした母親。二人は墓の前で抱き合い慰めあう。

被害者側と加害者側との関係を超越し抱き合う二人。言い方を変えれば、間接的な憎しみを踏み越えて二人は理解し寄り添う。しかし、皮肉にもそこで抱き合う二人は、憎しみを超越できた二人でもありその子供その子孫を失った二人でもある。

皮肉である。その寂しさや虚しさを慰めてくれる相手が、我が子を殺した犯人の母親であり、片や我が子が殺した被害者の母親だったという構図。まったく皮肉でやり切れない構図である。



テレビ画面では、ロンドントラファルガー広場で開かれた追悼式に集う人々の黙祷する光景が映し出されている。

やがて悲しみは落ち着き、徐々に激しい憎しみに変わるのだろう。だがその憎しみ、鏡を睨みつけるようなことなのではと思えてくる。

鏡にむかって怒鳴りつけ、鏡を睨み、鏡を揺さぶったとして、その中の顔は永遠に笑わないし、自らの憎しみが消えない限りその像は表情を変えるはずがない。

もしや、鏡の裏側でも同じことをしているのではないだろうか。鏡を挟んでにらみ合う二者、二世界。

戦っているのは本当に理解できぬどこかの世界の人々なのか。相手をあまりに睨みつけ顔をしかめているがゆえ、そこに映る姿が実は自分でもあるということに気が付いていないだけなのではと思えないか。

最も手ごわい相手は、自らの心の中に潜む憎悪とそれに対する執着なのではなかろうか。
posted at 2005/07/14 23:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 放送批評
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