棋聖秀行が勝利を譲る好敵手

2005年07月04日

NHK「ハイビジョン特集」版≪無頼の遺言―棋士・藤沢秀行と妻モト≫は録画したが、「にんげんドキュメント」版まであったとは授賞式を見るまで知らなかった。先日NHKは受賞タイトルを冒頭自慢気に掲げ、ドキュメントファンに再放送してくれた。

NHK「にんげんドキュメント」
≪かあちゃんは好敵手〜棋士・藤沢秀行と妻モト≫
語り…三宅民夫 朗読…室井滋
名誉棋聖藤沢秀行79歳とその妻藤沢モト75歳。型破り夫婦の痛快物語を二台のカメラが見届ける。


そのドキュメントは様々なジャンルの番組たちとの戦いを勝ち残り、≪第22回ATP賞2005グランプリ≫を受賞したという。そこには碁という名の勝負師の闘いの他に、一人の老人の妻との闘い、癌との闘いが晒されているが、同時に取材者との闘いらしきものまでを垣間見せる。画面に晒す全ての一手が、彼の盤面の最適手に思えてくる。


静かな三宅アナの語りが閑静な住宅街を勝負師の自宅へと案内する。

神奈川県川崎市。
小高い丘の上の家で、ある夫婦が暮らしています。

碁打ち、藤沢秀行79歳。


囲碁界の最高峰、棋聖のタイトル、前人未踏の六連覇、自由奔放な棋風、破天荒、酒、ギャンブル、借金地獄、最後の無頼派。そんな表現は褒めているのか何なのか。どちらとも付かぬ言葉の数々で番組は始まった。

仏壇に手を合わせる妻の姿に、室井滋が少々大げさな芝居を加えながら「勝負師の妻」(藤沢モト著)の一節を朗読する。

「このクソババァッ! 手前ぇがきちんとしとかねぇからいけねぇんだぁ。とっととクタバリやがれぇ!」
藤沢と連れ添って50年以上になりますが、ずっとこんな調子で怒鳴られ続けていますので、こちらも今やすっかり慣れたものです。
「あなたさっき、死ねこのクソババァと言ったけど、今私が死んだら、あなたはその二日後にはきっと死ぬわねぇ」と言わずにはいられません。


朝日差し込む部屋の布団の中で、数々の破天荒な表現の対象がその朗読に合わせだらしなく淀んでいる。

そんなただの老人が、いざ碁盤を前にすると弟子たちに厳しい眼差しを向ける。布団の中の老人の姿は消えている。弟子を一喝する名誉棋聖。小さな局面に拘る若い弟子に、目の前の利益よりもっと大きな局面に目を向けろと秀行流の考え方生き様を見せ付ける。

弱々しい一人の老人の姿と、弟子に厳しい一人の棋士の姿が対照的に繰り返される。


番組終盤、飲み屋に同行した取材陣との車中の会話が面白い。

会話につい乗せられてしまったのか、突然銀座へのさらなるハシゴ酒を誘う秀行氏。スタッフは思わぬ取材機会をグッと堪え、妻の元へと帰宅を勧める。そこでカメラは秀行氏の吐く思わぬ一手の言葉を捉える。

藤沢氏「これから銀座行こうか…」
取材者「銀座ですか…。モトさんのとこ帰りましょう」
藤沢氏「あんなババアどってこたねぇ。藤沢秀行にまるっきり惚れられた女じゃないすか」

そんな言葉を覚えているのかとぼけているのか、家に着いた勝負師の態度は相変わらず激しい口調に戻る。

夫「ババア、今帰ったぞ。ババア、生きてたのか」
妻「・・・」
夫「若い時ゃ美人だったよ」
妻「誰?(飲み屋の)ママが?」
夫「モトさん…、モトさんだよっ! うるせぇクソババアが…」
妻「お世辞使い出したな…」

夫が妻を褒めている。どこか遠まわしに、しかしある意味直球で、少しだけ照れ笑いを晒しながら妻を褒めている。

車中にて、妻への想いを語った彼の姿は取材陣には想わぬ盤面が拡がった絶好の光景だったかも知れない。だが、取材陣が喜ぶようなそんなとぼけた一手を車内でぽろっと吐き、取材ディレクターを喜ばせているところ、その小さな局面を何かの為にそっと譲っているかのようだ。

ちっぽけな局面を取材者に譲りその代わりに、妻の心内に無限に広がる大切な盤面を彼は手にする。勝負師藤沢秀行、盤面を眺める俯瞰の視点は大賞受賞のディレクターよりも遥か上空を浮かんでいる。


番組のエンディング、年老いた夫が布団に入り眠りにつく時、老人は布団の中からスタッフに声を掛ける。

「どうぞお帰り下さい」
その場違いな言葉に笑い出す妻。

そんな微笑ましいエンディングの些細な会話に、私はふと途轍もなく複雑な感慨を覚えた。微笑ましくもやりきれない寂しさが漂う老夫婦の会話。

部屋を後にする妻と先に眠る夫の交わす言葉は「おやすみ」ではなく「さよなら」だったのだ。

あらためて考えると何とも言えない言葉である。まぁ傍から見る者の考え過ぎでしかないだが、しかしいつかは別の意味を持つことになる。その言葉がそんな意味を持つまで、もっともっとずっと年月が過ぎればと想った。

posted at 2005/07/04 13:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 放送批評
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