16ブロック先の幸不幸

2007年07月13日
 どうしてこんな映画をふと観たくなったんだろう。

16ブロック



16ブロック
 監督 リチャード・ドナー
 出演 ブルース・ウィリス
    デヴィッド・モース
    モス・デフ


 我ながら理由も判らずにレンタルしてきたのだが、訳の判らぬ鑑賞意欲は自分の価値観を裏切らなかった。

 繰り返し何度も観たい映画ってほどでもないが、エンディングの妙な満足感は悪くない。映画「フィアレス」以来の満足感だな。
 


 宣伝文句だけで想像する分には、「こりゃ映画“ダイハード4.0”の宣伝用か?」なんて気分であった。

 で、いざ映画が始まりまもなくすると、「こりゃ映画“ガントレット”のリメークか?」という気分になる。

 で、映画も中盤に差し掛かると、「こりゃ映画“交渉人”の焼き直しか?」と思えてくる。

 で、映画がいざエンディングとなると、・・・・・。

 結果的にはかなりヒューマンドラマっぽいエンディングにじーんとさせられ、ちょっと粋なラストのサプライズにホロリとさせられてしまった。まぁ実際それほどのサプライズってものでもないけれど、単にドンパチで終わらないところは私好みの映画である。

 映画も人生も時にはサプライズがいい。忘れた人から不意にバースデーケーキが届くようなサプライズが…。



 それにしても…、映画が終わるとふと人の人生というものを考えてしまった。

 一体何ガ幸セナノデセウカネェ…、宮沢賢治センセイ。

 一生善行に励み続けまるで聖人君子のような人生を送ってきた人が、人生最後の日にたまたま魔が差して、何かの罪を犯してしまったとしたら、その人の人生はいかに価値付けられるのだろうか。

 もしくは逆に、一生悪行に身を投じ続けまるで悪の権化のような人生を送ってきた人が、人生の最後の日にたまたま善の光を見いだし、何かの徳を誰かに施したとしたら、その人の人生はいかに価値付けられるのだろうか。

 そんな対照的な二人の人間が同じ日に人生を終えたとしたら、その二人の人生はどちらが重く、どちらが輝き、そしてどちらかは地獄に落ちるのか…。



 映画の中に登場する二人の刑事は、同僚として、そして親友として長年犯罪に立ち向かい闘ってきた。

 時に大きな罪を罰するべく、自らの小さな罪すら無視しながら第一線を走り続けてきた二人の刑事。

 しかしその二人のうち一人は、自らの小さな罪を隠す事だけが第一となり、もう一人はその過去の小さな罪すらも自ら許せなくなっていく。

 ネタバレになるのでこれ以上は止めておくが、奇しくもDVDに収録されていた二通りのエンディングは、その二人に対する神の優しい加護と厳し過ぎる罰を描き分けたような二通りの脚本になっていて興味深いものだった。



 例えをもっと強調するならば、百万の命を奪ってしまったような人間が、人生の最後の日に何かを見いだし、自らを犠牲にするほどの善の行いをし、片や百万の人を救ってきたような人間が、人生最後の日に何かを見失い、誰かを殺めるような悪の行いをしたとして、百万の命を救ったからと云って百万の命を奪った人より本当に価値ある人生だったと云えるか否かという比較である。

 私は、それが単純には比較できなくなってきた。



 色で考えてみるならば、最後の最後に美しい色で仕上げることができるのか、それとも濁った色で汚してしまうのかといった感じであろうか。

 人生最後の日の最後の行いが、一体どんな色なのか。

 まぁ様々な人々が信じる神というモノが、もし本当に皆が云うように優しき慈悲に満ちているのなら、例えどんなに黒ずんで汚れた絵だろうと、最後の最後には眩い光で包み込み、限りなく純白に輝く白い光に導いてくれるはずなんだけどね…。



 実際この映画はそれほど深刻なテーマではないのだが、エンディングを過ぎてエンドロールが流れ始めると、ふとそこまでも考えてしまった。

 観終わって痛快な気分にさせるだけの映画が悪いとは云わないが、ふと何かを考えさせるような映画でないと、記憶には残らない。この映画、結構記憶に残りそうである。

 観てもいない映画“ダイハード4.0”と比較するのも変な話ではあるが、年相応の役を演じ始めたこっちのブルース・ウィルスが結構カッコいい。
posted at 2007/07/13 01:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映像批評
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