「後書き」を後々書いてみる

2005年06月30日
ダイジェストと呼ばれるモノが好きである。

映画などの長編作品を短くしたダイジェスト版を好んで見てしまう。周知の作品の気づかなかった一面を知りえたり、未知なる作品の見所を見せびらかされ見る気もなかった食わず嫌いのジャンルを見たくなったりと、常にそそられている自分が情けない。

同様に、“舞台裏全部見せます!”や“製作現場の全貌!”なんて内容にも弱い。中には嫌いなジャンルの嫌いな制作者なのに、“舞台裏”というだけで興味を抱く事もある。

好きなジャンルにおいても、時には本編より舞台裏ばかりを観ていることがある。作者の息吹を感じられるような“製作風景ドキュメント”が、私の中では本編を凌いでいるのだ。
 
考えてみれば、本来“一個の独立した作品”にそれは必要なモノなものではない。作者の意図は決まってそこには無く、大抵興行主やテレビ局、出版社といった第三者の利得がからんでいる。

しかし、にも関わらずその製作過程が観たくなるのは、作品より作者に近づきたいという衝動なのかも知れない。“作られた作品”より、実は“作るプロセス”と“作り出した存在”が観たいのだ。



ところで、書物においてはどうだろうか。

ダイジェストとまで言わなくとも、本編の前後には必ず添え書きがある。本の巻頭や巻末に添えられる前書きや後書きは基本的には作家の生の声であるはず。

あれは一般的な読み手や読書家たちにはどう受け止められているのだろうか。一般的な読み手でも読書家でもない私には理解の手助けとして大変助かるのだが、読み手すべてが求めているとも思えない。

「誰々に捧ぐ」なんて前書きならまだしも、解釈の様々な余韻を打ち消してしまうような本人の詳しい解説を鬱陶しく思う読者もいるはずである。

前にも後にも何も存在しない作品もあれば、たっぷりと書き加えられた作品もあるだろうに、読み手によっては好みは分かれるだろう。



さて、最近書き手の真似事をしている私は、その“後書きの書き手”の気分をも味わっている。

浮かんだ言の葉をむやみやたらと書き記す文章とは異なり、文字数の制約を自らに課した途端、なにやらむしょうに後書きが書きたくなってきた。

制約とは、サイト「短篇」(⇒リンク)の千文字という縛りである。

後書きを書き添えたいという欲求が消えぬ限り、その文字数の制約に満足に耐え切れていない証拠ではと思えてきた。

そう考えると、大作家の大作のあとに添えられた後書きが、読み手の理解の背中をそっと優しく後押しするような言葉と考えられるのに比べ、自分の書こうとしている後書きがいかに弁明じみたものなのかが思い知らされる。

それでも後書きを書きたくなる衝動を抑えきれず、私はやはり各作品(作品なんて言葉も木っ恥ずかしいが)に後書きを添えることにした。

そこは修行中の身の特権である。どうせ読み物として扱ってもらえないなら、どんなモノを意図しどんな風に書きたかったのかをたっぷり弁明させてもらうしかないだろう。

かくして、それぞれの後書きを並べてみる。可笑しくも恥ずかしきなことであるが、まぁ出版社のぶり返し紹介のように記事にしてみた。



以下創作直後に書き添えた後書きや後々書き添えた後書きと、それぞれの記事リンクである。これらの中から、誰か一人どれか一つでも読んでみたくなってくれたとしたら、それは書き手より“後書き文の本望”というものだろうか。

書いてあることはすべて事実である。だがそのスタイルは一つの短篇風なモノを思い描きながら書いてみた。事実を記したものが一体短篇と呼べるものなのかは私には判断できないが、やはり一つの短篇作品として分類しておきたくなった。

短篇「行き場なき弁当の行き場」⇒リンク


「工場」という漢字は、それが大きい場合は「こうじょう」と読まれ、小さい場合は「こうば」と読まれる。「町」という看板を掲げると大抵「まちこうば」となるが、字数に反比例してやたら寂しい雰囲気が漂いはじめる。

「工場」という字面は何も変わらないのに、読みが違うだけでその二種類の発音が醸し出す匂いと響かせる音と、そして呼び起こす風景はまったく異なるものである。ちなみに私は、小さい方を使用した。

短篇「忘れ物」⇒リンク

こんな短編は、いつしか短編集の一員になれるのだろうか。とりあえず今のところ、新規のカテゴリーを一つ増やそうか迷っている段階である。次のネタはすでに固まっているのだが…。


念のため。一応完全にフィクションである。だがこんな前書き、書けば書くほどそうには思えなくなりそうである。そんなことを気にしている素振りすら、誤解を招きそうであった。だからさらに念のため。これは完全にフィクションである。

短篇「住職と葬儀屋」⇒リンク

一応念のため繰り返しておくが、これは完全にフィクションである。さらに念のため。


実は投稿してからもまったく気がつかなかったミスが最近みつかって愕然とした。「あっ、日付が違ってる…。日付が重要なのに」…だがあまりに遅かったのでもうどうしようもない。自前のサイトでのみ修正することにした。

短篇「ある母の日のブログ」⇒リンク

サイト「短篇」なる場を見つけ、初めて投稿した“短篇ごときモノ”がこれである。ブログにおける“不思議な時間軸”がある日気になり、それを物語の形を借りてどうしても試してみたくなったので作ってみたのだ。

書き手の時間軸とは全く逆に、そこに偶然辿り着いた読み手は書き手の時間軸を何の疑いもなく下方へと遡っていく。書き手に訪れた大きな出来事の流れを、偶然の読み手は書き手の時間の流れとは逆になぞっていくと、読み手にはどういった反応が湧き上がるのかを想像してみたくなったのだ。

人はケーキの直後に映し出された子供の顔の映像を見ると楽しげに受け止め、壊れたオモチャの直後に映し出された子供の顔の映像を見ると悲しげに受け止めるというモンタージュ論。それを極端に強調するため、ブログの書き手には可哀そうだが人生でもっとも大きな出来事を起こしている。


“食物”としてではなく、“料理”としての食事に最も必要とされる“調味料”も、素材が無ければ意味がない。だが時に“調理法”や“調味料”こそはじめに在りきなどと、自覚しながらそんな錯覚を楽しむ人々が見られる。ある投稿サイトにて出合った作家の台詞。「ルビをたっぷり振って書いてみました…^^)」。某短短サイトのそんな人々に疑問を感じた瞬間ふと湧き上がった皮肉のプロットを、自分のイヤミな性格を楽しみながら文章にしてみた。すべての作品のキッカケなんてモノは、実はそんなモンなのではと思っている。

短篇「調味料」⇒リンク

作品のキッカケをくれた人に感謝しつつ彼の口調を借りれば、「皮肉をたっぷり煮詰めて書いてみました…^^)」ってなところだろうか。それがどんな感情だろうと、何かを湧き上がらせた彼の文章は私には読んだ甲斐があったということである。皮肉にも誠に皮肉なことである。


無題とは、題のないこと。人の人生に題など存在しないものである。

短篇「無題」⇒リンク

どんな世界かも知らずに人は書物を開き、そして再び現実の廊下に戻ってくる。過ごした部屋の数ほど人は夢を見、そして読んだ頁の数ほど厚みが増していくのだろうか。本を読まない私など、どれほど薄い人間なのだろう。読んだ人ほどそれが見えるのではと思うと、今さらながら恥ずかしさを感じはじめた。


まぁそのペン先を本格的に磨いている方がたにとっては、こんなモンにはごっこのごの字も見当たらないかも知れないだろうから、そのような方がたと無理に肩を並べようとは思っていない。
しかし、しかしである。一旦何か表現したいモノがふと沸きあがった時には、できれば誰かにうまく伝えたいと思うものである。つうことで、ふと浮かんだある風景を描いてみた。ただし、許されるはたったの千文字である。

短篇「彼岸のバス停」リンク

いやはや千文字、まったくもって難しい。まぁ実際千文字どころか、文字をどれだけ使おうが難しいことには違いないのだが、いやはやまったく、まったくである。

あぁ、こうして“後々書き”を書きあらためて眺めてみると、並ぶのは弁明ばかりであった。そこに浮かぶのは、好きな絵を描いた無邪気な子供とその創作意欲の元を恐る恐る確かめる小学校の美術の先生の会話のようでもある。

先生「君は何が描きたかったのかな?」
子供「えぇとね…忘れちった。何だっけ? 先生…」
先生「…ん、そりゃ先生にもわからんな」

出来上がった自分の絵を見ながら、子供は描こうとしていたモノなんてとっくに忘れている。しかし、それが自分の描いたモノには違いない。そして自分の描いたモノは自分にとっては何より大切なのである。

優しい先生に言って欲しいのは一言。「まぁとにかく…、よく頑張ったね!」。だがその一言を欲している間は、真似事と自己満足を脱しないのだろう。
posted at 2005/06/30 10:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 語部修行
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