亡き解説者への見舞いと供養

2005年06月29日
ふと、今は亡き人を突然思い出すことがある。

時に親戚や知人だったり、また時には昭和の芸能人や海外の俳優だったりと、何がキッカケなのやらそこに明らかな脈略も何もなく、しかし一度現われたその過去の存在が簡単には消えず、頭の隅で大小の思い出が燻りいつまでも漂っていることがよくあるものだ。そんな時、私はあわてて命日を調べる。それによって墓参りに行くわけでもないが、ふと気になり始めると、その人の命日を調べずにはいられなくなる。

先日、ふと私の脳裏に一人の映画解説者の名前がよぎった。特に個人的面識もないその有名な映画評論家は、かつて週に一度ブラウン管の中から茶の間にむけその晩の映画の面白さを語ってくれた。TBS午後九時「月曜ロードショー」の映画解説をしてくれた映画評論家、故荻昌弘氏である。もしや命日が近いのかも知れないと私はその名を検索し、納得した。
 
1988年7月2日、荻昌弘氏は還らぬ人となった。享年62歳だったという。

いまさら墓参りに行くつもりもなければ、線香を灯すつもりもない。ただ、あなたの語りを思い出す。映画の楽しさをとくとくと語っていたあなたの独特な語り口を。

映画の楽しさを教えてくれたのは何も荻氏だけではなかった。「日曜洋画劇場」の淀川長治氏にしても、「水曜ロードショー」の水野晴郎氏にしても、「ゴールデン洋画劇場」の高島忠夫氏にしても、それぞれの担当する映画枠において、たっぷりと伝授してくれた。だが、荻昌弘氏には特別な思い出があった。



あれは私が都心の高級花店に勤めていた頃のこと。私は一件の見舞い花の配達を任された。

「あっ、これって映画評論家の荻昌弘じゃん」

子供の頃から見慣れていたその名前に、私はちょっとだけ興奮し何かを期待しながら店を出た。病院への道すがら、配達の車を運転しながら、「何か一言くらいは話がしたいなぁ」と、色々なことを考えながら運転した。そして病室に着き、私は絶句した。

彼はすでに呼吸器に口を塞がれ、身動き一つ出来なかった。マスクの下に覗く表情は、かつてブラウン管の中でニヤリと笑っていた名解説者のものではなかった。サインを求めるまでもなく、私は「サイン、代筆しときますね」とだけ言って病室を出た。

ショックだった。その姿と、そんな状態の彼に事務的な言葉しか掛けられなかった自分が悲しかった。面白い話をたっぷり聞かせてくれた親戚のおじさんが、もう何も話してくれなくなったような寂しさを感じた。

帰りの車の中、私はずっと後悔の念が消えなかった。一言、「頑張ってくださいね!」とか、「またテレビで話を聞かせてくださいね!」とか、掛け損なった言葉が次から次へと浮かんでは車窓に消えた。

後日、彼の訃報を耳にした際、その後悔の念をどうしようもできなくなったことを知った。あぁ、あの時、どうして一言が口に出来なかったのだろう。

「映画の貴重な話、映画の面白い話、映画をさらに好きになるような興味深い話を、たくさん聞かせてくれてありがとう!」

故人を思い出し、思い返し、思い描くことこそ、最もシンプルな供養と思っている。今週、「月曜ロードショー」がむしょうに懐かしい。ふと思い出したのは月曜の晩だったような気がしてきた。



ライブラリーを引っくり返せば、彼の解説付きの「月曜ロードショー」だって何本も出てきそうである。あのTBS独特の黄色いテロップの入った、他局とくらべ社会派サスペンスがやたらと多かったあの「月曜ロードショー」。

残念ながら一部のテープはカビが生え、中には切れていて観る事ができない。それでも私には捨てられない。

その観れないビデオテープの中で、荻昌弘氏がどんな映画を観せてくれたか、その映画に関してどんな話をしてくれたかもいまや忘れつつある。しかし、彼がとくとくと語ってくれたことと、その話でどれだけ興味をそそられたかは忘れない。

ふむ、一本だけ確実に観れる作品があったはず。荻昌弘氏が解説してくれた「太平洋ひとりぼっち」である。供養がわりにあのテープでも観るとするか、と思ったが一体どこにあったか定かではない。7月2日の命日までに見つかるのか、見当もつかない。
posted at 2005/06/29 06:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘雑録
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