映画『私の男』

2014年06月21日
映画の中に自分のワンシーンを重ね見ては懐かしみ、そしてまた人生の中に映画のワンシーンを思い返しては振り返る。いつかそんなものが曖昧に溶け合っては記憶の底に沈んでゆくもの。映画とはそんなものだとは思っていたけれど、まさに現実と回想と映像と印象とが妙に絡まって記憶に定着していく瞬間を意識しながら観た映画だった。

あっ、俺がいる。



俺が、その映画の中に過去の俺が登場し、俺の代わりに何かを語り、そして俺の代わりにやや黙し、そして俺の代わりに落ちてゆく。

いつだったかこの映画とはまったく関係もなく、ただたまたま偶然にも、ややアブノーマルな愛の形をふと想像してみた事があった。ほんの少し前の事、一週間かそこらは前だっただろうか。なぜか唐突に愛の形を想像したのだった。

人は時に人を殺めてしまうけれど、愛する人を殺めてしまった人がもしその過ちを一生抱えて生きていくとしたら、それはある意味でその人の事を一生抱えて生きていく事にもなるのだし、だとすればそれはそれで幸せな事のようにふと思えた事があった。愛する者の記憶を海馬に刻み付けてしまうという事は、どんなものなのだろうか。どんなに愛しても、たとえどんなに愛を尽くしたとしてもその対象を完全に自分のものにすることは不可能である。けれどそれが記憶という形だとすれば、もしや愛の果てに誰かを殺めてしまった人は、物理的な対象の代わりに記憶という形状においてそれが出来るのではないかという事。それは妙に幸せな事のように思えた。物理的な対象としての肉体は消え、記憶の中の存在として殺めた者の中に移植されてしまえば、もはや誰にも奪われる事もなく、また失われる事もない。実際現実的に考えるとすれば、例えば法の裁きを受け、そして牢獄で独りその記憶と向き合うという一生を得る幸せ。何処か非現実的に羨ましい状況でもある。

逆に、誰かに殺められてしまった者はどうなのかを考えてみる。肉体的な苦しみなどは一瞬でしかなく、やがてその物理的な存在もまた一瞬にして、己を殺めた者の記憶の中に移行する事になる。もはや自分だけのものとなった、自分を殺めた者の記憶の中で、自分だけの世界にまた留まるという事。

結局は殺めた者と殺められた者の関係性は生き残った者の命の長さだけ続く事になる。まぁ何処にでもいる平凡な二人が共に平凡に一生を共に過ごした場合の存在の長さとたいして変わらないのだろうから、それらの長さを比較してもそれほどに意味はないだろうが、それよりも関係性の密度が殺め殺められの二人の方が比較にならぬほど緊密に思え、それはやはり羨ましい。

ではそんな二人を比較するならば、愛する事の果てに最愛の者を殺めてしまった者と、愛されるが故に己が享受する愛の延長として殺められてしまった者とでは、どちらが幸せなのだろうか。最愛の者を己の記憶に留める事が出来た者と、最愛の者の記憶に自らが留まる事が出来た者とでは、一体どちらが幸せかという疑問。自分はいったいどちらの愛の形態を望むのか。

そんなこんなを何気なく数日間考えていたある日、この映画を観てはまたそれらの想像に妙に絡み合ってしまった。誰かのものになるという事。誰かを有するという事。誰かを自由にする事だとか、誰かの思うがままになるという事。

なぜかあまりに切なくて、不意に涙が堪えられなくなった。滲んだスクリーンでは、もはや廃人のようになっていく男が微かに微笑んでいた。そんな形態の愛しか選べなかった二人が切なくて、けれど何処かそんな選択をしてまでも愛し合うという二人が羨ましくてならなかった。誰になんと言われようとも、そういった愛し方を選んだ二人は、そしてまた誰がなんと言おうとも何処か美しい。

羨ましいのだ。そんな選択などすらどうでもよく、それほどまでに誰かを愛しきるという姿が美しくもまた憧れずにはいられない。

私の男、という存在になりたがっている、私という男。
posted at 2014/06/21 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映像批評
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