1959年(昭和34年)、東京都港区のある発掘調査現場から、一つの棺が発掘される。
女性の亡き骸は
一枚の写真版をそっと抱いていた
八十年ぶりに光の差し込んだ棺には、一人の女性が一枚の写真版を胸に抱き静かに眠っていたという。しかし、その場に立ち会う人々の前から、その写真版に写っていた男性は忽然と姿を消した。
その女性が発掘される113年前の1846年5月10日、女性は日本で最も由緒ある家に生まれた。
晩婚が進む現代とは異なりはるかに早婚な時代、6歳の頃にはすでに決まっていた嫁入りの日を素直に夢に憧れながら、彼女は恵まれた少女時代を送った。
だが1861年10月20日、15歳の彼女が長年夢見たその旅立ちの日に嫁ぐ先は、憧れの君の元ではなかった。その日、我が身を翻弄する運命とその波に身を任せる己の辛さを、控えめながらもある意味あからさまに表現した彼女の歌が伝わっている。
住み慣れし
都路を出でて 今日行く日
いそぐもつらき 東路のたび
彼女の想いを案じ各地の名勝を立ち寄りながらの一ヶ月近い道中においても、道の先に待つ定めの君ではなく、憧れの君への想いを彼女は繰り返し詠っていた。
落ちて行く
身を知りながら 紅葉ばの
人なつかしく こがれこそすれ
逆らえない運命に身を任せる代わりにか、気まぐれに定められた婿への生涯の拒絶の意志があらわに詠まれた歌には、内に秘めた彼女のあきらめと強い決意が感じられる。その道すがらの彼女にとって、その押し付けられた辛い旅路と彼女の生涯の尽きる日は、まさしく同じ日であろうという想いまでが想像される。
惜しまじな
君と民との ためならば
身は武蔵野の 露と消ゆとも
時は再び1959年(昭和34年)、旅立ちの日から98年後の発掘現場では棺に納められた副葬品の調査が行われる。しかし、由緒ある家柄とは裏腹に棺の中の副葬品は胸に抱かれた写真版だけだったという。
女性の抱く写真版には
一人の凛々しい男性が写っていた
発掘現場に立ち会った人々は、そのガラス板の古い湿版写真の中に一人の男性の姿を見たという。しかし保存が適切でなかったためか、写真の中の凛々しい姿は一瞬にして消えてしまった。
時は再びさかのぼって発掘93年前の1866年、彼女が嫁いだ定めの君は突然他界する。彼女が望まなかった夫婦の日々は実にあっけなく終わった。彼女が嫁いでからたった5年後のことである。
その望まなかった結婚相手の死の知らせを受けた彼女が詠った歌には、あれほど明らかだった拒絶の想いが消えている。それどころか、途方もない悲しみを表した歌を幾つか記していた。
三瀬川
世にしがらみの なかりせば
君諸共に 渡たらしものを
三途の川を意味する三瀬川を、共に渡りたいと詠う彼女は、その短い五年間をどんな想いで過ごしていたのだろうか。
知らせに遅れること数日、夫の亡き骸は一反の織物とともに彼女の元へ戻った。それは土産の希望を尋ねた夫に彼女がふとねだった西陣織だった。その西陣織を胸に彼女は一人部屋にこもり泣いたと伝わっている。
空蝉の
唐織ごろも なにかせむ
綾も錦も 君ありてこそ
彼女はその後自らこの西陣織を手放している。
世の中の
憂てう憂を 身ひとつに
とりあつめたる 心地こそすれ
その大切な思い出の西陣織で袈裟を作り、ゆかりの寺に寄進したという。
着るとても
今は甲斐なき 唐ごろも
綾も錦も 君ありてこそ
「空蝉の御袈裟」と呼ばれるその袈裟は今現在も寺宝として大切にその寺に保管されている。
再び時は1959年(昭和34年)の発掘現場、写真版から消えた男性の姿が誰なのかは結局判らなかったという。今現在も知るものはいない。
たった五年に満たないその短い日々は、彼女が思い描いていたものとはまったく異なり、それは充実した日々だったと伝わっている。気まぐれに定められ「…武蔵野の露と消ゆとも」とまで嘆き詠っていた彼女の哀れさは、そこにやっと手にした幸せの日々が、皮肉にもあまりにあっけなく露と消えさったことだろう。
定めの君が西陣織を残しこの世を去ってから11年後、彼女もまた三瀬川を渡った。時代が時代とはいえ、32歳という若さである。
女性の亡き骸は
写真の君を抱き永い眠りについた
その亡き骸が棺にお納められたその時、その胸に添えられた写真版にはしっかりと男性の姿が写っていたはずである。もしかしたら11年間肌身離さず過ごしていたのかも知れない。
写真の君は
女性の亡き骸をそっと抱いていた
一連の文献に伝わる事実を鑑みれば、そこに誰がいたのかは明らかである。
しかし、この女性に関する史実の隙間には、様々な憶測や大胆な物語が多く存在する。写真版に写っていた男性が一体誰なのかという疑問以前に、そこに眠っている女性がそもそも誰なのかという疑問までが、歴史上のミステリーという名の色々な説として語られている。
とはいえ例えそれが誰であろうと、結局は“今生”の人間界のお話である。“今生”たった数十年間、その魂がどんな立場でどんな肩書きでどんな名前であったかという、たかだかほんの一瞬ならぬほんの“一生”のお話である。
それよりも私に興味深く感じられるのは、それが「二人の魂のお話」に感じられるからに他ならない。
婚儀前後の彼女の歌には、その身に圧し掛かる彼女の立場が見え隠れしている。しかし、定めの君の死を嘆きやがて受け入れる彼女の歌には、歌い手の居所や立場を匂わせるものがまったく感じられない。
単なる一人の魂がもう一人の魂を愛し、一瞬だけ先立たれる悲しさを歌に詠んでいるとしか思えない。
1959年その発掘現場においてもその瞬間その場所に、確かに二人の魂がそこに居た。そんな気がしてならないのだ。
参考文献
■[la:ラ]2005年3月号
新・ヒロインたちの肖像 和宮親子内親王皇女
〜動乱の日本を戦火から救った、幕末のプリンセス〜
参考サイト
■箱根阿弥陀寺
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詳細…皇女和宮について⇒リンク
■寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
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■Ohno's Page
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詳細…和宮親子内親王⇒リンク
■是非に!及ばず!
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絶筆⇒リンク
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■やまとうた
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千人万首⇒リンク
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