『かばん』

2013年06月09日
  かばん

 レストランを出て道玄坂を下り、渋谷駅地下の改札へと続く連絡通路に降りると、いつものカバン屋の前でユキノは、「ちょっとだけいい?」と言ってハンドバッグを物色しはじめた。地下街の数坪のかばん屋にオール千円の貼紙がべたべたと貼られている。様々なかばんを前にして、彼女は楽しそうに迷う。

 通路の反対側の壁に寄りかかって彼女の後ろ姿を眺めながら、私は記憶のへりをぼうっと覗いていた。何年も前に職場で流行った心理クイズを、誰かがふたたび頭の中で呟いている。
――あなたはカバンを持っています。カバンをあなたはどうしますか?
 職場で一番若く明るいもののマイペースでややお荷物的な新人の子がまっさきに答えた。
――あたし、おもいっきり振り回すわ、たぶん。
 思い出をふっと鼻で笑い思わず周囲を見回す。ユキノは別の棚のカバンを物色していた。
 
 
 地下街を歩くとなぜかJourneyのOpen Armsが耳に響く。たしかユキノと付き合い始めた頃、池袋駅地下の私鉄改札へ続く地下通路でよく口ずさんだからだろう。別れ際の、ふたりの限られた時間が残りわずかとなった、午後の切ない気分に結びついているのかもしれない。けれどあの頃、歌詞の意味もろくに知らずただ、腕をいっぱいに広げて君のすべてを迎え入れるよ、などと歌っていた。けれどその歌詞が思っていたものとはやや違う状況の歌詞だと知ったのはユキノと暮らしはじめてからのこと。純粋なラブバラードでもなく、ストレートなラブソングというわけでもない歌詞に、何処か不思議な感覚を覚えた記憶がある。

 クイズに答えたあの若い女の子のとんでもない答えにあの時、なんとなくその意味に見当がついた私は必死に笑いを堪えたものの、クイズを投げかけた本人はその意味を明かす前から腹を抱えて笑い出した。
――カバンってね、パートナーを意味するらしいわよ
 まったく、大きなお世話でしかない。それもいまさら。けれどあの時、私は何と答えただろう。思い出そうとしても思い出せない。代わりにたった今の気分でその問いを考えてみる。私はかばんを持っている。わたしは鞄をもっている。ワタシはカバン……。

 気が付けばユキノが目の前に立っていた。いいの、あった、と私は、笑い、なかったわ、とユキノは、うかない。「でもね、今すぐにでもなんか買い替えたいのよ、なんとなく」
 いつからだろう。彼女はこの地下通路を通る度にこの店を覗いている。
 僕はとりあえず駅に向かって歩き出す。やや遅れて、彼女の靴音がそっと、歩き出した。
〈了〉


posted at 2013/06/09 18:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 語部修行
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