短編「不連続想 ルドメの迷宮」

2013年04月23日
 船旅には二つの楽しみがある。

 船首に立ち、今にも船体に打ち砕かれんと舳先の下へ消えてゆく波と、その波の先に延々と広がる海原を眺める事。船尾に立ち、海面に泡立っては消えつつ遠のいてゆく白い波と、その波の先に延々と続く船の航跡を眺める事――
 人は時には風を真っ向に受けながらも船首に立ち、その先のまっさらな海に未来を眺め、そしてまた時には風緩やかな船尾に佇み、その後ろに伸びる白い軌跡に過去を顧みる。時には過去の先端にて後ろ向きに、時には未来の後ろ端において前向きに。

 そのそれぞれが動物にはなく、人間故の特性なのだから、どちらもまた悪いとは限らず――
 

 不連続想
  ルドメの迷宮
海馬 馨 
 

 船旅には二つの楽しみがある。船首に立ち、今にも船体に打ち砕かれんと舳先の下へ消えてゆく波と、その波の先に延々と広がる海原を眺める事。船尾に立ち、海面に泡立っては消えつつ遠のいてゆく白い波と、その波の先に延々と続く船の航跡を眺める事――新しいルーズリーフを開いては万年筆を手に、窓の外をぼーっと眺める。コーヒー、タバコ、カフェの前を行き交う人々。ペンは一向に走らない。小説の一節が浮かぶのをじっと待ってはみるものの、何も浮かばずに時は過ぎ、ペン先はぴくりとも動こうとしない。一体小説が書きたいのか、それともただ小説を書く人になりたいのかが判らなくなる。ふとどうでもよい事ばかりが浮かんでは消え、その浮き沈みに身を任せる――人は時には風を真っ向に受けながらも船首に立ち、その先のまっさらな海に未来を眺め、そしてまた時には風緩やかな船尾に佇み、その後ろに伸びる白い軌跡に過去を顧みる。時には過去の先端にて後ろ向きに、時には未来の後ろ端において前向きに。そのそれぞれが動物にはなく、人間故の特性なのだから、どちらもまた悪いとは限らず――
 一体全体、「自由」というモノは何処に存在しているのだろう。閑散とした映画館のシートに沈み込んで映画『クラウド・アトラスCloud Atlas』を観ながら考えていた、映画とは全く関係ない事がふと浮かぶ。
――牢獄の中に自由はない。けれど牢獄に囚われていない自由な人々には、そもそも「自由」という概念は必要ない。愛も憎しみもない世界に「愛」という言葉も「憎悪」という言葉も存在しないがごとく、自由も牢獄もない世界にさえ、「自由」という言葉も「牢獄」という言葉も必要とはされない。けれどこの世界にはそれぞれの言葉が存在している。「自由」を奪う為の「牢獄」。「牢獄」の外界に夢想される「自由」。それぞれが相反する「愛」と「憎悪」のごとく絡みあっているのだけれど、では一体「自由」とは本当は何処に存在するものなのか。水の中に溺れている時こそ空気の存在を意識するがごとく、牢獄の中に囚われていてこそ自由の存在を意識するならば、もしや自由は牢獄の世界にしか存在しないのか。溺れている水の中でしか空気の存在を感じられないのだから、空気は水の中に在るというがごとくの馬鹿なパラドックスに苛まれる。街にこそ孤独在りという言葉さえが絡みあう。あの時、それが映画とは全く関係ないと想いつつ考えてはいたけれど、実はそれすらもが映画の根底に潜んでいたメッセージだったのか。
 学生が無雑作に椅子を引き隣りに乱暴に腰掛け、慌ただしくアイスコーヒーをすすり、やがて静かになったかと思えばスマートフォンをしきりに撫でている。愛するペットのように。
 猫の手は小さい。ポウPawと呼ばれる手の平は開けば開くものの、何かを掴めるほどのものではない。彼らには大変失礼ではあるけれど、いつか昔の前の世に、持て余す程にでも物を持ち過ぎ、天の誰ぞやに罰でも与えられ、小さな手の平に変えられてしまったのかなと思えてくる。そのせいか、彼らが逆にある意味自由に見えてならない。物を持たなくなった分ゆえか、何かの呪縛から解放されたかのように彼らがとても自由に思えてならないのだ。掴める手があるから掴んでしまうのか。貯めこむポケットがあるから貯め込んでしまうのか。掴めなくなった彼らが手にしたモノとは何なのか。片や羽ばたく者はか弱い。大空を舞う自由を与えられた彼らは、他の動物たちと比べても何よりか弱い。逃げる術を与えられたから守る術を捨てたのか、一旦運悪く羽を失った彼らは葉の露ほども生きながらえない。自由に羽ばたき自由に移動する術に縛られたゆえの不自由さ。そして憶える事を憶えた者は何よりも進化した。人は溢れ出る記憶を言葉にし、文字に換えて紙に留め、そして一気に進化した。記憶により過去を得、同時に未来の夢までをも手にした。だが、人は記憶を得て何を捨てたのか。記憶を共有する言葉を得るために一体何を支払ったのか。憶える事を憶えた者が憶え切れなかったモノとは一体何なのか。
 学生はまた無雑作に席を立つ。ウェイトレスがさっとテーブルを拭きなおし、窓の外を学生が足早に去っていき、賑やかな店内の窓際の席だけがまた、静かになる。
 ふっと不安を覚える事がある。街を歩いていて妙な不安感に胸がざわめく。何かを忘れているのではないかという不安。自分は何か重要な事を何処かに置き忘れてきたのではという不安。しばらく歩みをゆっくりと遅め、短期記憶のトレーの中を探りながら振り返る。今日自分が行った場所、昨日自分がした事、一昨日自分が会った人、いつか自分が言った事、いつか自分が言われた事。そんな事柄を思い浮かべているうち、あっあれだ、とその忘れ物を見つけてしまう。忘れ物は大抵いつか抱いた漠然とした不安。
 たとえば誰かと話している時など、よく感じる些細な不安。あぁ何であんな事を言ってしまったのだろう。あぁ何であんな事を言われる事になったのだろうという小さな違和感は、小さければ小さいほどに、時を待つこともなく消えていく。けれどその不安が消えてくれても、微かな匂いが残っている事がある。まるで一夜明けた火事場のあの独特な匂いのように、炎は消え、燻った小さな火もすべて消えたはずの焼け跡から立ちのぼる妙な空気。たぶん私が感じてしまう漠然とした方の不安の元とは、不安を抱いた私自身の姿なのかも知れない。不安の火種を完全に消し切れない自分の不安定な心地が本当の火種とはもはや別の存在として心の裡に燻っているのだろう。大抵は元の不安すらどうでもよい事なのに、その二次的な存在の匂いの方がいつまでも残っている。火事場の隣の家のように。もういつ抱いたものだかすらも忘れた不安と、さらにそれ以前の不安の火種。今となってはもはやどうでもよいのだけれど、思い返そうと思えばその双方ともはっきりと思い返そうで、だからこそ余計にあえて思い返す事はないのだけれど、ふと別の考え方をすれば、それはもしやまだ同じ火種か、いや燃えかすの一部なりがまだ心の何処かに残っているからなのかと、また新たな不安が燻りはじめる。あぁ私は、また明日か明後日か一週間後かのいつか、たぶんこの不安をふと漠然と再び思い出し、そしてきっと、さ迷いながらも拾いに戻り――
 山手線のホームを歩いていると、ホームの端でフラフラとよろめきながら酔っぱらいが目を瞑って立っている。大丈夫ですか……と、声を掛けようか迷っているうち、ふっと湧いた不安を煽るように入線のアナウンスが流れ、電車の気配が近づいてくる。私は思わず彼の身体を支えようと手を伸ばし、手が届きかけた瞬間彼はふと振り返り、私の手に驚いてはのけ反ってスローモーションで線路に落ちていく。その直後それを待っていたかのごとく電車が早送り映像のように通過していく。私が助けようと手を伸ばさずにいれば、彼はホームから落ちる事もなかったのかもしれない。という未来ではないもう一方の未来へと、ただ訳もなく特にこれといった理由もなく、過去の現在から現在の現在に到り辿り着いているだけなのかもしれない今。という現在、私はいつか、残る一方の未来へと行き着くのかもしれない。
 となりの席にいつのまにか座っていた女性が、カチカチカチカチとライターを鳴らしている。火を貸すべきかとそのライターを確かめると、何なのよという視線と共に女性が煙を吐き捨てる。あぁこの視線を、その声なき嘆きを、人はみな嫌うようになって、
――名も無き画家の美術展を観に、公園に隣接した小さな美術館を訪れ、私はチケットを購入しようと立ち止まる。視界の隅に、二人の客が出口へと向かってゆっくりと歩いていく姿が映る。財布を取りだしながら、ふと過った違和感に振り返り、彼らを出口まで静かに見守る。ベレー帽を被った年配の男性と、彼に腕を貸すやや年下の女性。私はまた財布の中を確かめながら、まだ残る違和感にもう一度彼らを見詰める。男性は真っ黒なサングラスを掛け、細長く白い杖を手にゆっくりと歩き、やがて建物の外に拡がる緑の中へ溶け込んでいく。
 どうして、目の見えない人が、どうして、美術館に。私はチケットカウンターの女性に謝っては彼らを追い出口へと向かう。けれどもう、建物の外には誰もいない。
 お目当ての美術展などもはやどうでもよくなって、私は公園の緑を眺める。一枚の絵に、彼が見出だしたかもしれない価値以上のものを、はたしてこの目で見出だせるものだろうか。同じ絵を観るのが怖く――なって窓の外を眺めれば、それぞれの時間軸がそれぞれの歩幅で歩いている。みなそれぞれに時の起点を持ち、無限の可能性に放射状に拡がった未来を携え、たった今を歩いている。まるで箒の柄の継ぎ目を越えんとする尺取虫のように。
――突如として記憶の断片が舞い上がる音は、他人には決して聞こえない。一旦舞い上がると、それは風のない部屋を舞う羽毛のようにあてもなく宙をさ迷い、ゆっくりと浮遊し続ける。たぶんそれが記憶の底に舞い降りるのは、以前とはまた異なった場所であり以前とはまた異なった形。この部屋の光景やら音やら匂いやら、何かの新しい記憶が付着しては定着する。唸り続けるエアコンのノイズ。誰かが揺する椅子の音。かちかちと落ち着きなく鳴らされるペンの呟き。紙を捲るかさかさした音。甘ったるい誰かの香水の香り。訳もない緊張や、誰かの気配にふいに包まれる安堵。不安定な心地やらそれを煽るような救急車のサイレンや、誰かのポケットで静かに震える携帯の振動音。記憶と記憶は、時には何ら関係性もなく結び付いては絡み合って固まり、そしてやや大きくなったまま沈殿していく。いつのまにか一回り大きくなって、部屋の隅に静かに舞い降りる綿埃のように。
 歩道からカフェの店内を覗くと、窓際の席で私が男をじっと眺めている。一瞬目が合い掛け、慌てて視線をそらし、書店へと急ぐ――
 不意に、映画『愛を読む人』を観た日にふと抱いた考えが蘇る。地球の上で、何かを境界線で囲っても、その境界線が何を囲い何に囲われているのか。よく考えれば考えるほどに判らなくなる。ではもしあなたなら、どうなさいましたか。被告席に座った女性が、「その時」の彼女の選択を責める裁判長に逆に問いかける。戦争裁判で被告席を囲う見えない境界線が本当に被告を囲っていたのか、それとも裁判官やら傍聴人やら、さらにはそんな裁判に興味も抱かず、すでにその頃平穏な日々を送っていた人々までをも囲っていたのか。結局、人は自分が何処に立つかでその世界が内界か外界かを決める。例えば何処かの国の国境が、その国を取り囲んでいるのか、それともその国以外の国を取り囲んでいるのか、一体どうやって区別するのだろう。アウシュビッツの鉄条網が、どっちの世界を取り囲んでいたのか。北朝鮮の国境が、北朝鮮を取り囲んでいるのか、それとも欧米諸国を取り囲んでいるのか。ネット依存に陥った者の部屋の壁が、彼を取り囲んでいるのか、それとも彼を含有しないアウターワールドを取り囲んでいるのか。球体である地球上において、円を描いて閉ざされた境界線で何かを取り囲んだとしても、境界の外界はその外界の地にいる者たちにとっては結局は境界の内界として閉ざされており、境界の内界はその内界の地にいない者たちにとっては所詮は境界の外界としてやはり閉ざされることになるのである。どっちにしろ人というものは、自らの立つ「我が善なる内界」とそれ以外の「受け入れ難き悪なる外界」に分け、時には内界にて良き名前を名乗り、そして時に外界に悪しき名を貼りつける。それはまた空間上に限らず時間軸の上においても、我々はもしやその特別な時代などと境界線で囲い、自身はその外界にいると思い込んではいないだろうか。――半分ほどになったコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜ、そこへミルクを垂らして渦を眺める。
 唐突に、人という名の臆病な生き物について考える。それはやはり人間だけなのかもしれない。人というもの、人間という生き物は、自らを人間と自覚してこの方ずっと死を忌み嫌い、そのサイクルに没することを独り拒み続けてきた。或る意味死の闇に漠然と不安を感じてしまった瞬間、つまりは死というものを忌み嫌う感情を意識し始めた瞬間、要するに死に対する恐れを認識した瞬間こそ、云うなれば人間がその裏面である生を実感しまさに人間となったまさしくその瞬間だったとも云えるのだけれど、それに比べて動物たちはみな死を自然に受け止め、そのサイクルに身を任せて溶け込み、その生々流転を成立させるべく自ら進んでその身を死に委ねているように思えてならない。死に対する恐れを認識したことこそ、動物としての人間が人としての人間に成り得たきっかけであったわけだけれども、それを自覚したことが本当によかったことなのか。彼のシャニダールの洞窟にて、前史の誰かが死者に初めての花束を手向けたとも言われるが、動物たちはいまだ自らの血肉を何の衒いもなく捧げ続けている。
 一つの宗教を信仰する一人の信者が諸宗教を客観的に論ずることができないがごとく、人が人間という動物を他の動物と比較論ずることは、その立場の違いを真摯に受け止めればやはり不可能である。人というもの、常に人間という動物自らをすべての動物の頂上に据えて考えがちだが、本当に我々人間という動物は地球上における生きとし生けるすべての生物の頂上に君臨していると自覚してよいものなのだろうか。実は晴れ晴れしい頂上なんかではなくて、最も臆病で最も愚かで最も無責任な、下の下、最低の最低、最下位の最下位のさらに最深部で常に何かに怯えているだけの存在なのではないかと思えてくる。
 店のどこかで、誰かが誰かに電話で囁いている。故郷に残した愛しい恋人なのか、励ましを必要としている学校の親友なのか、憎むべき職場の上司なのか。そこには電話しか存在しないのに、まるでそこに誰かがいるかのごとくに囁き続ける。ふと誰かがいない世界という世界を、君のいない世界という世界を想う――
君のいない世界が、君にとってどれだけの価値があろうか。そんな世界は、僕にとってもまったく価値がない。君のいない君の世界など、僕にさえ一体どれほどの価値があろうか。
 世界という言葉は、そのまま何にでも置き換えればいい。君のいない学校、君のいない職場、君のいないカフェ、君のいない携帯、君のいない明日、君のいないアルバム、君のいないその詩、君のいないその小説、君のいないその物、語り。君のいないその、私という文字。
 君がいるということ、君がいないということ、僕がいるということ、僕がいないということ、君と僕がいるということ、君と僕がいないということ。
 君のいない詩も小説も何も彼も、僕は読む気などまったくない。君にとって価値がないのなら、そんなもの、僕にも価値など、これっぽっちもないのだから。
 どうでもよい事ばかり浮かぶのに、何か特別な事を必死に絞り出そうともがくのは、やはり単に小説を書く人になりたいだけなのだろうと思わざるを得なくなって、そんな自分が嫌になってはまた、何かを絞り出そうと必死にもがきはじめる。けれどやはりどうでもよい事しか浮かばない。形見の万年筆が急に重みを増していく。不意に父を思い浮かべ、するとなぜか息子の顔が過り、息子を思い浮かべると、ふっと父の淋しげに振り返る顔があらためて浮かぶ。
――親の欠点を理解できない子は幸いであろう。同じ欠点を授からずに済んだお陰で理解できずにいられるのだから。そしてまた、親の欠点を理解できた子は幸いであろう。同じ欠点を授かっちまったお陰で理解できることになったのだから。親である自分の欠点をいつか子が理解できたなら、それは不幸にも同じ欠点を授かり、同じ欠点に悩み、同じ欠点を見つめた故に理解できたことになるのだ。親である自分の欠点をまったく子が理解できなかったなら、それは幸運にも同じ欠点を授からず、同じ悩みをも得ず、同じ視点に立てずに理解できなかったことになるのだ。同病相哀れむとは云うけれど、同業相憐れむとはしたくない。ならば、理解されない親が幸せというもの。同じ業に親子相憐れむとはしたくないのだから。けれどふと父を憐れむ時、その憐憫の目差しの息子の顔が私を眺め、そんな息子を哀れむ時、悲哀の目差しで私を見詰める父の顔が浮かぶ。私はまた何かを諦めては窓の外をぼーっと眺める。通りを人々が楽しそうに行き交い、「楽しそう」なんて言葉がいつの間にか口癖になっている自分にふと気付いてはさらにそんな自分が嫌になって、己の不安定さをふと省みる。
 すべての存在というもの、それぞれが常に不安定に振動を続けては熱を発し、他の存在には自らの振動とその熱を伝播し、そしてやがて振動を止め、熱を失っては再び無へと消えていく。その振動とその熱とが存在の証ならば、不安定こそ生きている証拠となろう。裏返して考えるならば、存在が安定した途端、その存在は熱を失い、そしてその瞬間存在は無に変わる。不安定こそ生存の証。それこそが生きている証――
 コーヒーを口に含みカップをテーブルに置き、煙草に火をつけ、煙草をもみけす。
 あれは一体誰の言葉だったのか。かつて観た映画『フィアレスFearless』のワンシーン。一枚の絵が忘れられない。死に対する恐れを失ってしまったひとりの男が映画の中で、闇の先に輝く光を描いていた。その絵に添えられた「長い旅の終わりに」という言葉。 The soul comes to the end of it's long journey...and naked and alone draws near to the divine... 長い旅の終わりに 魂は見出す 何もまとわず ただ独り 神の元へと 昇って行く 神の御前に至っても――なあ、お前は今――人はまだまだ独りなのか。何もまとわずひれ伏すその時を想うと――今お前は何処にいるんだい――途方もない孤独感と、どうしようもない無力感を覚え、独りわなわなと震える。
 所詮何人たりとも火葬炉の扉はたった独りでくぐるのだ。棺もなくそのままの姿で旅立つ光景を一旦見てしまうと、何かを恐ろしいほどに思い知らされる、えっ棺はないんですか、ええ条例が厳しくなったとかで、条例って、大気汚染とみなされるとかで、毛布を掛けるだけでもだめなんですか、ダメなんですよ、お前は何も言わずに横たわり、じっと時を待っている。
 最後の別れ、それはプライベートでも仕事でも何度も目にした見慣れた光景。だが覚悟していたものとは違う、それではお別れでございます、お願いします、ごろごろと重苦しい音を立て、彼をのせた台車が炉の扉をくぐっていく。薄暗い炉の中で、彼はまだすやすやと眠っているように丸い背中をこちらに向けて、走馬灯か、お前の寝ている姿しか浮かばないじゃないか――人生とはまったく寂しいものである。魂や霊魂という言葉を当然のように信じ、SoulだとかSpiritという英単語をとても身近に感じるくせに、その想いが深まれば深まるほど、その孤独の影はさらに闇を広げ、不安は永遠に続く気がしてくる。信仰が人の不安を癒すと人は言う。だが、私の信仰心はやはりどこかズレているのか、信じれば信じるほどに不安を助長する。
 真っ白なルーズリーフに向かって万年筆を構える、けれど。ペンだけは裏切らないと思っていたのに、そのペンさえもが何も返事をしてくれず、途方もない孤独に再び苛まれる。際限のない現在形の不安が延々と浮かんでは消え、それさえもまた嫌になって、私はどうしようもなく気が狂いそうになる、脱出できない、迷宮のように、私はいつまでも、いつまでも現在ではない今に囚われ、る。
〈了〉

海馬 馨 2013年4月23日


posted at 2013/04/23 01:24 | Comment(4) | TrackBack(0) | 語部修行
この記事へのコメント
未来がないですね。
なのに過去と現在がある。
素晴らしいですね。
Posted by 迷宮の住人ゴーレム at 2013年04月29日 17:12
ありがとうございます。

未来が現れた時、迷宮から解放され、その未来をしっかりと携えた時、人は生きる意味を見出し、歩み出すのだと思います。

do i know u?
Posted by 映太郎 at 2013年04月29日 17:43
面白い考えですね。
確かにそうかもしれません。
私には、よく分かりませんが。
Posted by 迷宮ゴーレム at 2013年05月01日 14:53
 ヴィクトール・E・フランクルが、彼の著作「夜と霧」の中で語っていたのです。たとえ収容所の中でも、確固たる未来を失わずにいられた人は、その未来だけを携え生きていけたのだと。まぁそれを、人の世の人々は、希望という名で呼ぶのだけれど。

 私の想像が確かならば、“時計の下を旅立つ君”は元気でいるのかい?
Posted by 映太郎 at 2013年05月01日 15:28
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