嘘の漂う森を生き抜く為に

2007年03月03日
 何ヶ月か前、電脳百科事典ウィキペディアの膨大な頁の隙間を彷徨っていた時のことである。ふと画面に現れたと或る人物のエピソード記事の中にとても興味深い言葉を見つけ、私は思わず唸ってしまった。

「嘘を嘘と見抜けない人には難しい」

 確かに…、まさにその通り、かも知れないな。
 
 このご時世、情報過多甚だしいこの時代に、或る意味情報に溺れがちな人々への警鐘にさえ聞こえる言葉。どこか痛々しいほど的確な響き。

 私はどこぞの番組に感化され慌てて納豆を食べ始めた小市民のごとく、ごくごく自然に納得してしまった。 
 
 で、一体自分は何を調べていたんだっけか……。

 当初調べていた項目の事などすっかり忘れ、“その世界”では泣く子も頷くという“ひろゆき”氏のその言葉が頭から離れなくなっている。



 以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』内の項目:「西村博之」―インターネットの匿名掲示板である2ちゃんねるの管理人―に記された西村博之氏を紹介するエピソードからの引用である。

 2ちゃんねるで時折引用される「嘘を嘘と見抜けない人には(掲示板を使うのは)難しい」という言葉は西村が2000年に起きた西鉄バスジャック事件の際、テレビ朝日『ニュースステーション』の取材を受けた際にコメントした言葉である。

引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
   リンク→トップ項目「西村博之」より

 その言葉、厳密には「…掲示板を使うのは…」と、掲示板を使う際に限定して語られている。

 巨大掲示板の管理者としての彼の立場を考えると、利用者に対する管理人の言葉としては或る意味とても厳しい言葉に思える。

 しかし…、確かに…、いやまさに…、或る意味…、そうだろうなぁ…、その通り…、って気がする…。



 実際彼がその言葉をテレビ朝日の番組内で発言した際に、どういった話の流れからあのような表現が出たものなのかまでは私には判らないし、その言葉の中の“嘘”というものが、あの事件後の取材では具体的には一体何を表していたのかも私には知りようがない。
 だが、2ちゃんねるという巨大掲示板に集う人々、いや実際にはそこに立ち入ろうとする免疫なき新規参入者に対する一般的な警鐘としては、誠に納得できるものに思えてならない。

 だが私が納得してしまったのはその言葉の持つもっと広い意味である。あの警鐘は何も“2ちゃんねる”に限ったことではなく、それどころか他の様々な掲示板というものに限定した言葉でもなく、もっと広い意味において現代の情報過多社会の中でとても一般的な内容に思えたからこそ、私は思わず頷いてしまったのだ。

 今の世の中、いつでもどこでも誰にでもどんな状況にでも当てはまる言葉ではないか。



 例えば、ありふれた週刊誌の中でさりげなく見開き頁をさいて語られるありふれた“何気な広告”のごとき“さもらしき”怪しげな情報というもの、メディアには星の数ほど蔓延っている。

 事実と真実、嘘と虚飾を日々垂れ流す様々なメディア。人々はその半真半偽加減を判っていながら、依存症を自覚しながら携帯を手放せなくなってしまったモバイルホリック世代のごとく、今やメディアツールなくしては生きていけなくなってしまった。にもかかわらず、時に人はふと何かを見極められなくなって右往左往と慌てふためく。

 先日の捏造騒ぎにしたって、コンテンツとコマーシャルの巧妙な境界線も見極められぬ人間がバラエティ番組を真剣に観てしまうから、たかが納豆一つで日本中が騒ぎになってしまったとも云えなくもない。

 そもそもはあの手の番組、どう考えても報道番組などには見えず、単なるバラエティ番組だったはず。それをいと楽しきバラエティとしっかり割り切って観ていたならば、納豆がバカ売れした騒ぎは許せたとしても、それが嘘だったから許せないという騒ぎは起きなかったはずである。

 似たような状況はあらゆるメディアに付きまとう。

 やはりあの言葉、奇しくもある種の真実の言葉であり、ちと大袈裟ではあるが、若き先人の発した若き格言のようにさえ思えてならない。



 それにしても、世の中信じられないことが信じられないほど次から次へと湧いてくる。

 いつしか、世の中“報道はバラエティより奇々怪々”となり、下手なミステリードラマより日々のニュースが好奇心をそそり、文芸界きっての肩書き“真実のストーリー”という売り文句は年々説得力を薄めつつある。

 魅惑的な嘘と見飽きた真実は、雨後の花粉のごとく人々の眼球を交互に刺激し、感覚器官はますます鈍化していく。そしてその鈍い感性を補う為、人はさらにコントラストを強めた刺激を求めメディアの森を彷徨い歩く。

 まるで信じられない真実を洗い流す虚構の点眼薬を求め彷徨うように。まるで目を覆いたくなる事象の残像を洗い流してくれるスクリーンセイバーを求め彷徨うように。

 とはいえ、中には自覚しながら自ら彷徨い込む人々もいるようである。さらなる花粉を求め、黄金の霞漂う森に自ら立ち入る花粉症患者。人々が何かを求めて2ちゃんねるに集うのも、そんな花粉症患者とどこか似かよった印象が否めない。

 真実のごとく自信過剰な偽りのログと、嘘のようではあるがどこか物静かで控えめな真実のログとを見極め、その行間から新たな真実を見極めようとする人々。その森の管理人であるひろゆき氏の言葉を裏返してみれば、そこに夜ごと集う人々が一体どんな人々なのかを逆に表しているとも受け取れる。

 “嘘”を“嘘”と見抜ける人々

 まぁ振り返れば人というもの、真実である日々の生活では何一つ真実を見い出せず、巧みに構成された嘘の中に真実を見い出そうとしてきたからこそ、古今東西の芸術が発達してきたというし、或る意味そんな“嘘”こそが芸術の本質なのだから、芸術なくして発達しなかったメディアに嘘が散在するのも仕方がないのかも知れないが、だがそれにしても、その“嘘”を“嘘”と認識できなくなってしまったらお仕舞いというもの。

 そう考えると、先の言葉通り、今の世の中、“嘘を嘘と見抜けない人には(生きていくのは)難しい”のかも知れない。



 この記事を書く為に再びウィキペディアを訪れ、あらためて色々と確認してみると、どこかひろゆき氏の言葉を後押しするような一説が見つかった。

 …なお、この内容は不特定多数のボランティアにより自由に編集されていることを踏まえ、自身の安全利害に関わる情報は自己責任でご判断ください。

 ふむ、いつかどこかで一世を風靡した懐かしき言葉。

 結局は自己責任である。“嘘”を“嘘”と見抜けずに例えどうなろうと……。
posted at 2007/03/03 07:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑題雑想
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。