君は正しいし僕も正しいけれど

2013年03月11日
 君は正しい。
 君の価値観において、君は君を正しいと思えるのだから。

 僕は正しい。
 僕の価値観において、僕は僕を正しいと思えるのだから。

 では彼は正しいだろうか。
 彼の価値観において、彼は彼を正しいと思えているのだろうか。
 
 もし彼が、彼の価値観において自身を正しいと思えないのなら、どうすればよいのだろう。

 君の価値観を押し付けてもしょうがないし、僕の価値観を差し出してもまた意味はないだろうし、たとえ彼に似合う誰かの価値観を探してきたとしても、そんなものを彼が受け取ること自体が彼の価値観に反するのだから。

 価値観が100%一致するなんてことはありえない。けれどもしそういう二人の人が見つかったとしても、その二人の間に“尊重”なんて言葉は必要もないだろう。

 一致しないからこそ、理解できない違いも時に認めてこそ、“尊重”という言葉は存在意義を持つ。

 黙って見過ごすこと、見て見ぬふりをすることは“尊重”とは程遠い。それは“尊重”ではなく“無視”という言葉があてはまる。理解できないことをあえて理解しようと努め続けることこそ、“尊重”という言葉の意味だと思う。
posted at 2013/03/11 02:05 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑題雑想
この記事へのコメント
お互いの価値観をお互いに尊重する必要はない。
初めから尊重とかぬかすから、お互いにウヤムヤが残るんだ。
初めから尊重する必要はない。初めは大いにその価値観を戦わせるべきだ。
その結果、負ければそれもよし。負けた方は価値観を磨いて再戦を挑めば良い。
そうやっているうちお互いがお互いを認め合えばその末に自然と産まれてくるものが尊重と結果的に呼ばれているに過ぎない。
違いは結局認めないし、認め合わない。
違う人間の存在を認めるようになる。

初めからの尊重はお互いにお互いを殺しあって、本来立ち現れるべきお互いをウヤムヤにするだけ。
理解しようとし続ける必要なんて無い。
戦わせ続ける事の中に意味があるだけなのに、それが面倒だから理解とか言っているように私には見える。
大体、戦おうとしてもヒラリとかわすのが美徳とされている価値観の優先する世の中。

最後に質問。あなたは三時間もかけて私に何を伝えに来たのですか?
Posted by noname at 2013年03月12日 02:00
明らかに発生した違和感を、さも無かったかのように振る舞える。振る舞おうとするあの人も、人に「がっかりした」と告げて去るあなたも、結局はヒラリとかわそうとしただけだった。
悪いけれど、僕にはそうだとしか思えない。

確かに、その方が正しい。
自分も周りも傷つけないのだから。
自分に向かって来た相手が自爆するだけ。

あなたはあの時、僕にがっかりしたようですが僕はあなたにがっかりなんてしなかった。

覚えがある中で一度、Sさんに言ってしまった事があったけれど「がっかりした」なんて人にいう台詞じゃない。
もっとも、相手を人として見てなければいくらでも言える事ではあるけれど。
Posted by noname at 2013年03月12日 04:05
私の行い。その行動までを含めて全てが私だと言うのなら、その事を忘れよう、時が解決してくれるのを待とう。
そうしようとしていることは無視にはならないのですか?

時は何も解決しない、してくれない。それは錯覚だ。時が解決してくれるというのは、長い時間をかけて死んだだけ。それを許しと綺麗に片付けて言っているだけだ。

我が信心、未だ火は消えず。思いよみがえらせれば一層の勢いをもって燃え上がるのみ。
Posted by noname at 2013年03月12日 04:59
 己の意に頷く者はつまらない。そんな奴は存在しなくてもいい…とある者は思う。

 己の意に背く者は気に入らない。そんな奴の存在すら気に食わない…などともそのある者は思う。

 ではそのある者はどちらに近づけばいいのか。

 己の意に背く者の近くに居れば、皮肉にも否定の言葉で己の存在を常に確信できる。だから己の意に背く者へと近づき、異なる意をぶつけては己の存在を確かめる。ある者はそんな自覚もなく、そういった行動を選びがちとなる。


 ある者とは、他者の否定によりのみ自己の存在を確信できないSNSなどの“アラシ”の事。この話しは君の事ではない。けれど何処か似ていないかぃ?


 君がここ、私のブログに来て、記事を読んでくれた事は嬉しい。たとえ異論とはいえ、自身の意を表明してくれた事は、交信を一時拒否した事もあり、やはり嬉しい。

 けれど、まだ君は“君の行動に対する私の判断と評価と肯定と否定”を必要としているのかい?
 否定されたくなければ、山で虎のごとく糞にまみれていればいいではないか。そうすれば誰も君の意を否定しないのだし。なのに君は街に出る事を選んだ。ならば街では人となれよ。

“尊重”だの“無視”だのの定義などどうでもいい。私は私なりに定義を持ち、君は君なりに定義を確信しているのだから。

 問題は誰かが、あえて誰かと云おう、その誰かが、二次感情に支配されている事だと、“私”は思っている。その二次感情が無くならなくとも、やや薄れて下層意識に引き下がるのを待っているんだよ。その待つという行為を“無視”などと呼ばれても私は一向に構わない。
Posted by 映太郎 at 2013年03月12日 10:18
問題は“二次感情”ではなく、“根本思想”にある。
二次感情であろうが一次感情であろうが、根本思想に問題があるのならどの道同じ。
怒りを持って銃の引き金を引こうが、冷静に銃の引き金を引こうが結果は一緒。

一次感情とか、二次感情とかそんなことを言うのは、結果的にその奥にで展開されている醜いパワーゲームを隠してしまうことになる。
パワーゲームの結果は長いものに巻かれること。巻かれろということでしょう。
そこに対等な立場など存在しない。決定権は強者にある。
人間も、世界も、必ずしも論理で動いている訳ではない。
大事な時こそ非論理になる。
非論理性が口を開ける。その時の決定的なズレ。
強者はいいだろうが、弱者はその感情的訴えを社会に容易には貫き通す事が出来ない。
その非論理的感情の訴えを“問題”と言ってしまう事は、芸術に関わる、関わろうとしている人間としてどんな意味を持つのか。
感情に支配されない人間に“表現”などあり得るのか。

弱いものは“怒る”強者は“黙る”
“弱いものほどよく吠える”と言うが、本当の強者など、どこに居る。
生き物が“死”という決定的な非論理性を抱えている限りにおいて、すべてのものは弱者だ。
強者になれるとしたらそれは“弱者であること”を忘れてるか、それを隠そうとしているだけだ。
Posted by noname at 2013年03月14日 00:34
何においても、問題は根本思想だ。
それが、相対した人間に与える影響の決定的な部分を占める。
二次感情で訴えるのも、一次感情で訴えるのも、小説で訴えるのか、詩か、音楽か、歌か、どんな形で訴えるのか。それも全て根本思想が決める。

それで、“兎の君”は戻ってくるのですか?
Posted by noname at 2013年03月14日 00:50
本当に糞まみれなのは“人”か“虎”、どちらなのでしょう。
より凶暴なのは“人”か、それとも“虎”なのか。
Posted by noname at 2013年03月14日 01:27
自分が虎であると自覚した人間と、虎の前に出ることによってでしか……。
いや、虎の前に出てもなお、自分が何者であるのかもわからない人間の話。

「山月記」とはそういう話ではなかったのだろうか。
Posted by noname at 2013年03月14日 01:35
面倒臭ぇから放っとこ…(;ーー)
Posted by 映太郎 at 2013年03月14日 01:38
それらの話を、笑いながら語れるくらいになったらまたおいで。
Posted by 映太郎 at 2013年03月14日 01:41
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