死をタブーにしてはいけない

2005年05月03日
あぁ…、あの朝からすでに一週間が経っている。

それにしてもまた、一週間前の悔やまれる朝から数えること何年か後になっての話だが、潜在的に誘発された可能性を指摘され得る残忍な事件などが再び起こるのだろうか。

人は死んだらどうなるのか、死んだ人はどんな姿なのか、遺族が伝える“人間とは思えない顔”とは一体どんな顔形なのか…。

何十人もの人がうめき声をあげ声にならない声を絞り出し助けを求め、そして一人また一人沈黙し静かな肉体の山となる光景。証言には地獄絵図という言葉さえ聞かれたが、今現代の平和な日っ本においてそんな光景を現実に目の当たりにする人がいるなんて。
 
事故を招いた根本的要因であろうダイヤ設定上のミスに対し、JR西日本上層部は罪を免れないだろう。だが、多感な若年層の世代に余計な想像を掻き立て異様な先入観を与えた罪までを責める者はまさかいない。ただ真実を伝えるためだけに日々時間を割き関連の話題を繰り返し再現映像を流し続ける報道機関に至っても同じことである。

事故とは少し離れるが、それにしても、悲惨だから子供たちには見せてはいけないとか、おぞましいから多感な若年層には見せられないとか人は言うけれど、子供たちに何も見せずに置く事が本当に適切なのだろうか。かつてから疑問に思っている。何も死体を映せと言っているわけではない。「死」という概念に関しての話である。

いつのまにか「死」そのものが
 タブーになってはいないだろうか



話をそらす。まったく関係ない番組の関係ない話題の合間に誰かが言っていた。

最近ではほとんどの人が
 病院で死を迎えるんですよ

よく、「できれば畳の上で死にたい…」などといった台詞が物語には登場する。しかしある意味現在、それはまさしく夢のような夢となっている。

現代人は
 畳の上では滅多に死ねない

病院のアフターケアが仕事である業界の人に聞いた話ではあるが、現代人の“生き死に”というもの、かなりの確率でカレンダーに従っているらしい。どなたかその手の統計数字を持っていれば確かめ教えて頂きたいものである。

最も判りやすいのは大学病院などの産婦人科における出生率だろう。月曜から金曜までの平日にほどよく分散し、医師の少ない土日や深夜帯は出生率が下がる。それは偶然ではなく、促進剤などの使用を反映しているのだという。緊急以外はすべて計画的に処置してしまうらしい。時間にしたって9時〜5時にきっかり収まりそうである。

促進剤を使用する際、土日や深夜を避けるのと同じ理屈で、ゴールデンウィークや盆や正月なども使用が控えられたり、また逆に間際に駆け込み的に使用し産ませてしまうこともあるだろう。

驚くべきは出産とは正反対の状況である。長い連休や暮れから正月にかけては死亡率が下がるというのだ。何をどうすれば死にそうな人を長生きさせまたその逆のことをするのかは知らないが、霊安室に詰める人々はみな口をそろえてそれを指摘する。

「連休前後って増えたり減ったりするんだよね。誰かが休みに備えるかのように、連休前には霊安室がやたらと忙しくなり、連休に入ると突然暇になるんだよ」

人の生死は医者任せでも病院任せでもなかった。病院のカレンダー任せだったのだ。



さて実際、以上の話はあくまで噂と推測の域を脱しないのだが、人が自宅で死を迎えなくなったことによる“ある影響”は確かに存在するだろう。

子供が「死」に接する機会を
 漠然とした何かが奪っていることである

昨日まで一緒に過ごしていたお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが、ある日突然死んでしまうということ。大きくて温かかったその手は少しずつ冷たくなり、指も腕もそして体中の関節もが固くこわばって硬直し、時には生前とは違う匂いを発する、かつて元気で優しく自分を撫でてくれたその人の変わり果てた姿。

お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも同居せず、もし亡くなったとしても葬儀には参列せず、または家族どころかペットも飼わずペットの死さえ接したことがないとしたら、子供たちは「死」をどのように理解しどのように考えどのように受け止めるのか。

その未知の概念に関する情報や体験があまりに欠如しているだろう彼らが、日々伝えられる様々な事件事故現場の“異常な死の状況”や報道などによる“異様な光景のリアルな表現”を目にし耳にして想像し、「死」という概念の引き出しの一番奥底にそれらが仕舞い込まれたとしたら、彼らのその後の体験の受け止め方にどう影響するのか。

凄惨な事件後の報道では、犯人はバイオレンス映画を見ていたから影響を受けたとか、(少々死語っぽいが)スプラッター映画が好きだったから刺激されたとかいう指摘が多々見受けられるが、本当にソレが原因だとは私には思えない。

問題は刺激を与えた映画やメディアではなく、それら過激な刺激以前に、「死」に関する普遍的で一般的な概念をどれだけ事前に吸収したかではないか。

問題は順序

死んだお祖父ちゃんの手の平の冷たさに驚きわんわんと泣いた一人の子供が、何年か後、その映画がどんなに過激だろうと、死んだ登場人物のシーンの奥にお祖父ちゃんを思い起こし涙することもあるだろうし、片や棺の中のお祖父ちゃんを見てスプラッター映画のワンシーンを思い出し顔を突っついてみようとする子供だっているかも知れない。



死を迎えない人などいない。誰でもいつかは死を迎えるのに、世の中「死」を死ぬまでタブーとする先送りの風潮はいかがなものか。「死」がタブーなのではなく、「死」を軽視することがタブーなはずなのに。現代、「死」そのものがタブーとなってはいないだろうか。

世の中色々と
 免疫が必要だというではないか

特に各種メディアにはあらゆるタイプの免疫が潜んでいると思われる。身近な体験以上に染み込む名画や名作アニメもあれば、異常な免疫が潜み思わぬ反応を巻き起こす異常な作品だっていくらでも存在する。

事故の報道に涙する親につられ悲しみを覚える子供もいれば、事前に接種したおかしな免疫により変な好奇心を刺激され、ネット上で犠牲者の死体画像を検索しまくる子供もいるかも知れない。時にその報道自体が正しい免疫となることもあれば、報道自体が怪しい免疫となることだってあるということだろう。

ところで、実際に植えつけられた免疫の中でたった一つだけ皮肉にも確実に存在するモノがある。繰り返される報道が日々国民に植え付けている免疫が、JRに対する不信感だということは間違いない。
posted at 2005/05/03 06:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑題雑想
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。