善あらば善なる贈り物

2012年10月22日
 結局薬局、善あらば善なんだよ。

――良かれと思って

 人はよくそんな事を云うけれど、同じことさ。
 善の心を持ってすれば、それは結局は善なのさ。水だろうが、薬だろうが、優しき言葉だろうが、辛らつな評価だろうが、何だって同じさ。

 薔薇を贈るのは、薔薇を君が美しいと思っての贈り物。赤を選ぶのは、君が赤を美しいと君の目で、君の価値観で判断してのこと。相手が薔薇が気にいるのか、相手が赤が好きか嫌いか、美しいと思ってくれるか否かなんて、どうせ百夜悩んだとしても、答えは出ないのだし。

――相手の好みを確かめればいいじゃないか

 人はそんな事を云うだろう。
 実際問題そうだとしても、けれど“相手が欲しい物”と“相手が必要としている物”、そして“相手が持つべき物”と“相手が抱えられる物”は、本当に同じなのかな。

――善あらば善、悪あらば悪

 例えそれが誰かを打ちのめしてしまったとしても、善の心あらばそれ結局は善。例えそれが相手に至福の時をもたらしたとしても、悪の心あらば結局は悪。

 と、私は私の価値観で、くどく思うよ。

 こんな言葉で、誰か間違って苦しむとは思わない。けれど贈り物は時に思いもよらない結末をもたらすことがある。O・ヘンリが短編『善女のパン』で見せたように、何がどう人をどん底に突き落とすかは判らないのだし。
 とはいえ私なら、必ずや同じ事をする。
 パンの中にはバターをこっそりと挟み、自転車にぶつかりそうだと思えば年寄りを助けるべく平然と突き飛ばす。たとえその向こうに結果的にはトラックが来て跳ね飛ばされてしまったとしても。

 百年悩む罪を背負うことになろうとも、結局は仕方ないだろう。それがその瞬間の善だと思えたならば、百年の悩みを自ら背負う覚悟で、実行するのみ。

 最愛の者に憎まれようとも、最愛の者にそれが最も必要と感じてしまったら、結局は与えるしかないと思う。最愛の者が欲しい物ではなく、最愛の者が必要とする物を、与えうる限りに。
 その覚悟がないのなら、結局究極、目を瞑るしかない。最愛の者が見えなくなってしまっても。

 それは極論でしかないけれど、私の価値観は結局南極そう思う。
posted at 2012/10/22 14:10 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑題雑想
この記事へのコメント
身体は歳を取らされても、精神は歳を取らないのだな。
それが結論。
だったら遅い早いなど身体時間を除けばないはずで、それを理由にして手遅れかもしれないなんてバカな事を考えていたものだなと、博士も善の使者も詩人もリーダーも旅人もクレーマーも猫かぶりもみんな年齢不詳。
岡本太郎が「決断の後、精神は以後ただ磨かれるだけだ」と言っていたことに今更納得。
精神は身体に縛られ、周りも“自分”のその一面から違うとか、そうだとか、手遅れだとか思ってしまう。
淡白なのも、今だ思春期の真っ最中、それとも今思春期が始まったから?だからかも知れません。
道元禅師曰く「人に仏性などあったなら、仏性のない人間は仏にはなれないのか?否、人にはもともと仏性などない。ないから全ての人間は仏になれるのだ」
目を磨かなければ本当のことは見えてこないのだと。
Posted by 詩人志望 at 2012年10月22日 17:10
タシカニ。

 それにしても、君の考えを聞いていると、“確かに”とか“なるほど”とか、何度となく想いをあらためさせるられる。それ心地よく、ありがとう。

 確かに、身体年令と精神年齢とに分けて考えてみれば、私の下した“手遅れ”という判断は、想いあらたまってしまったたった今の私にすら、あまりに“バカな事を考えていた”と思えてしまって、今かなり心苦しい。

 そう考えると、結局究極、探し続け、試し続け、そして例えば書き続けるしかないということだろうか。君らよりもっともっと身体的限界が身近な私にも、そうするしかないというある意味優しき答えだとも思えてくる。

 とはいえ、身体的限界をまったく念頭においていなかった私としては、皮肉にも今それを初めて意識してしまい、正直かなり心が苦しい。

 お返ししますと手渡された“手遅れ”という言葉が、今度は私の中で膨張を始めてしまいました。
 二十年、いや三十年早く君に会ってそれをおおっぴらな自信を湛えた顔で教えて欲しかった。
Posted by 映太郎 at 2012年10月22日 21:15
二十年、三十年早く会っていたとして、僕の話を素直に聞いていたとは、到底思えないのですが。
どうでしょう?
勝手な予想ですが。

こちらからも感謝いたします。
おかげさまで詩が一つ書けました。
題名は昔書いていて断念した詩から、言葉はこのブログにアップされていた口ロロからいただきました。
テーマはこのブログ記事と、追い出された日の話を思い出しながら。
題名は『海』
Posted by やっぱり詩人 at 2012年10月24日 00:14
  海
              
さよなら雨が降って
濡れる 自分
落ちた先を辿れば
空に雲
雨の素を辿って来たら
足元は広大な海
上も下も広大な水に囲まれながら
さようなら
 と
そう言って さようなら
思い出す

友達にさようなら 先生にさようなら 先輩にさようなら 女友達にさようなら 犬にさようなら 猫にさようなら 二度と会いたくないやつにさようなら 二度と会わない人にさようなら 二度と会えなかった人にさようなら 好きな人にさようなら 嫌いな奴にさようなら モルヒネ漬けのおじいちゃんに、病室で最後のさようなら さようならと言わないさようなら

さようならの後
さようならが
さようならとなって
さようならにさようなら

詩人がいう
海は広い
言葉の結晶がすぐに溶けてなくなり、例えそれが自分や相手にとって全く違う物になってしまっても、投げ入れた結晶はもはや誰の手にも残らないものだとして
わかっていても
それをひたすら繰り返せ

詩人がひとりたたずみ
目前に

Posted by 考える人 at 2012年10月24日 04:53
>…素直に聞いていたとは、到底思えないのですが

 よくご存知で。
 これでもかなり、今となっては素直になった方なんだけどね。かつてはもっと人の言葉を聞かなかった人間でしたから。

>やっぱり詩人

 だよね。
 志望を名乗った時点でスタートラインを跨いで戻ってしまうのだから、詩人!と言い切ってスタートラインの内側に自らを放り込む方がいいのだと思っていた。だからほっとしている。

>おかげさまで詩が一つ書けました。

 ふと自惚れた気分が漂う。
 ふふふっ、詩人をインスパイヤーするなんて、俺の言うこともまんざらじゃないのかな…と、少々自画自賛してみる。
 自分の言葉が誰かを動かしていると思えるなんて、物を書いている人間からしたら最高の錯覚、最高の勘違い、最高の思い過ごし。

 人間、勘違いだけで人を愛し、その愛で自らの命まで捨てられるのだとすれば、勘違いも悪くないしな。答えが正しいかは問題じゃない。答えが出ることも問題じゃない。答えは出そうとするだけでいいのだろうし。
Posted by 映太郎 at 2012年10月24日 04:57
こらぁ〜!

 なんで人のブログで晒すんじゃぁ!
 もったいないだろうが。

 てか、まさか同時にコメントを書いていたとも知らずに、コメントを書いていたよ。なんだかなぁ。

 まぁ、インスパイヤ元への感謝の印として、謹んで初読させて頂きました。ありがとう。
Posted by 映太郎 at 2012年10月24日 05:05
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