二つの選択と二人の未来

2012年10月01日
 長いカオスの夢の果て、目覚めとともに残酷な妙案が浮かびあがった。二人の人間の未来に関する気儘で身勝手で傲慢で、ことによっては失礼極まりなく、そしてそれでもある意味彼らを思ってこその未来への選択肢と道。

 一人の人間にはある意味、あるべき“本来の姿”と“激変の未来”をもたらし、そしてもう一人の人間には“進むべき道”と“残酷すぎる将来”をつきつける。

 けれど……。

 WTCビルの階段で二人の人間をみつけ、一人はへたり込んで一歩も動こうとせず、もう一人は階段を登ろうとしていたら、自分はその場で殴ってでも降りようと説得するだろうか、気絶するほど罵倒して抱えてでも階段を降りようとするだろうか。

  Who The Hell Knows...
 


 数日前、ケーブルTVで911のドキュメンタリーを見た。

 助かった人のインタビューと再現VTRが交互に映し出されていく。あの時、誰それが突然現れて私は助かりました……とか、誰それの言葉で再び歩みはじめて助かりました……とか、出会いと選択と行動と、そしてその結果として今生きているという結末。

 ある人の選択と結末が特に印象に残った。
 


 三人の男性が長い階段を降りて逃げていた。

 その内の一人の太った男性が階段にへたり込み、「僕はもう動けない……」と云う。「僕はここに居るから先に行ってくれ!」と云い、一歩も動こうとしない。彼を残りの二人が説得する。「歩くんだ!動くんだ!」けれど彼はまったく動こうとしない。

 インタビューの男性が振り返る。
「そこに救助の消防隊員が現れたんです。消防隊員が『逃げろ!』と云ったんです。私はその言葉で決意しました。座り続ける彼を残し、私は再び歩きはじめたんです……」と語る。

 結局その決意で彼は助かり、結局座っていた彼は助からなかった。
 
911を振り返る或る証言
 


 彼はたぶん、一生苦しむのだろうと思った。すでに結論の出た選択を一生続けるのだろうと思った。
 あの時、もう少し説得していたら、殴ってでも歩かせていたら、もしや座り込んだ彼を再び立ち上がらせ、そして助けることができたかもしれない……と。けれどそれは今だからこその後悔。悔いというのは未来にしか存在しないもの。

 WTCビルが崩れていなかったら、火災もほどなく落ち着いていたら。
 座り込んだ男性もやがては立ち上がり、数時間後にでも助かったかもしれないという別の現在は、その時まだ見えぬ未来としてまだそこに存在していた。

 けれどそれはWTCビルが崩れ去ったあの時からまた時も経た今の後悔。その場その瞬間にはそれは見えていない

 その場に居合わせたら、自分ならどうするだろう。どれほど説得を試みるだろうか。抱えてでも階段を降りるだろうか。気絶させても引きずって階段を進むだろうか。その場に居合わせた人でも一生出ない答えは、居合わせてもいない自分のまったく関係のない現在には出るわけがない。

 その瞬間未来は見えてない。ビルが崩れるなんて誰も思わなかったのだから、見捨てて一人で降りたとしても、その人の命はたぶん救われ、そしてやがて時を経て心もいつかは救われるのだけれど……。

 けれどもし未来が見えていたならば…。
 もしふっと二人の未来を見抜いてしまったらば…。

 見捨てたという罪も見捨ててしまったという悔いも、まったく別のものとなるはず。

  God Only Knows...



 何かが降りてくる。


  ま酔い未ち

 峠。僧侶が腰を下ろして見渡すと、道端に佇む二人の若者を見た。

 地図を持つも歌を忘れた小柄な語り部が一人、足を煩いへたり込みんでいる。傍らでは、強固な足腰を持つ幻想の放浪者が、地図を求めて途方に暮れ、巨漢を横たえ俯いていた。そこにおぞましき花を求めて散策していた歌人が、自転車に乗って差し掛かってはふと止まり、二人をそっと見定める。彼は二人の皮肉な状況を一瞬にして見極め、届かぬ声で歌を詠んだ。

  迷う者共に歩めばその道に
   おぞましき花々狂い咲き
    その実に酔えばカタルシス

 歌人はそのまだ見ぬおぞましき一輪を懐にしまい、満足そうな笑みを湛えては黙って立ち去った。僧侶はその残り香に繭を潜めながらも慌てて懐から香匙を取り出し、その芳香を匙でそっと掬い取っては香合に忍ばせた。

海馬 海



 降りた何かが飛んでいく。
 


 結局人の姿はよく見える。良くみえるという意味でもあるし、クリアに見えるという意味でもあるけれど、他人のことほどわりとよく見えて、気軽に何でもいえる。けれど自分の姿は見えない。鏡を前にしてもまだこの鏡は歪んでいると何かを拒む。この俺は俺ではない!と拒みつづける。

 なぁ代表、実存主義って何?
 世代が違うという君らは一体何主義なんだぃ?
 あと幾晩語り合えば、もっとクリアに見せてくれるんだ?

 Nevertheless Life Goes On...
posted at 2012/10/01 07:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | 語部修行
この記事へのコメント
端的に言ってしまえば主義がないのだと思います。
あの時は、インターネットのお陰で世界が狭くなったと言いましたが、違う切り口から見れば確実に広がった訳で、その主義はもはや自分にフィットする主義を自分で見つけなければならないという意味において何主義にも属せず、それは自由が手に入って何をしたらいいのかわからなくなるという現象と同じでしょう。現時点において○○主義といった言葉で言い表せられる事なく、ゼロ年代と言うようなもっぱら年代で表される事に留まり、思想の面でも、マルクス主義のような軸はなく、とにかく前の世代が必死に作った世界の目指してきた自由と絶望を強制的に与えられ、前の世代が残り少ない酸素も自分の使う分だけはちゃっかりとボンベに詰めて保管し独占し、酸素の全くない世界に生まれた世代が我々の世代でしょう。

そして、これは幾晩語り合ってもクリアにはならないでしょう。クリアにすることはできても、他者がクリアにしてくれることなど絶対に有り得ません。
何故なら言葉が自分と自分の記憶のどこかにある何かの間をを仲介する道具であったとしても、言葉それ自体が何かを決定したり、表すことは絶対にないからです。
故に、「強固な足腰を持つ幻想の放浪者」が何かをきっかけに「地図を持つも歌を忘れた小柄な語り部」を一瞬で大きく引き離すことがあっても、逆が起こり得ない最大の理由でしょう。

「地図を持つも歌を忘れた小柄な語り部」
「強固な足腰を持つ幻想の放浪者」
「おぞましき花を求めて散策していた歌人」
 ははー、そうきましたか。
 一つの見方として、非常に面白かったです。
Posted by 代表と呼ばれたくない代表 at 2012年10月01日 23:10
それでも君が影の代表じゃんかぁ!?

 ふむ、とはいえ、お陰で何かがクリアになってきた気がしないでもない気がするような感じといったところに到ったと思えなくもない感覚。クドィか、俺。

 しかしこの解説、ちとコメントだけにしておくのはもったいない。

 まぁ結局のところは、誰かに訊くのも野暮ならば、誰かに云うのもそれまた野暮、ってとこだな。それ以上に、誰かに云われて旅を終えるのも、誰かに云われて行き先を変えるのも、意味はないのだし。
Posted by 映太郎 at 2012年10月01日 23:36
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