「極道」がさらす上辺な教育

2005年04月09日
極道という言葉をクラスのモットーに掲げた中学教師を、彼の恩師は今どんな想いで見ているだろう。

「極道」先生…意味が違う
都内中学の国語教諭 厳重注意
--学級スローガン 教室に横断幕--
 東京都大田区立の中学校で昨年度、三年生の学級担任教諭が教室に「極道」と書いた学級スローガンの横断幕を掲げていたことが六日、明らかになった。教諭は四十歳代で国語担当。個人的な信条の「道をきわめる」という意味で掲げていたというが、辞書によると「極道」は「悪事をすること」などの意味。保護者から「おかしい」と指摘があり、学校側は「教育上、妥当性を欠く」として撤去し、区教委は教諭を厳重注意処分とした。(YahooNEWS/産経新聞)4月7日3時13分更新

確かにその意味は、誰もがその言葉に対して持っている一般的な印象である。誰かが肩で風切ってそうな、その筋のそんな人々が歩むその道が浮かぶ。

「極道とは」、あらためてYahooで検索してみた。
 
極道…ごくどう=1.悪事を行ったり、酒色や道楽にふけったりすること。身持ちが悪く、素行のおさまらないこと。また、そういう人や、そのさま。「―な亭主」「―の限りを尽くす」
2.素行の悪い人をののしっていう語。

 極道=任侠=ヤクザ=悪
∴極道≠教育的

短絡的で偏見に満ちた公式ではあるが、私も否定はしない。そういった印象を持っていることは確かである。しかし冷静に考えると、その偏見の矛先はどこに向いているのだろうか。

その言葉の意味か?
その意味を背負う人々か?
いやその言葉そのものなのか?
はたまたその文字なのか???…そんなわけは無い。

 −・−・−・−・−・−

一見その文字までもが厳つく見えるが、その厳つい字面を一旦開いてみると、特別な裏社会の暗く怪しい道に特に限定するような雰囲気はどこにもない。

極道⇒道を極める

どこかの番組で指摘していた。どうせなら「道は極めず」、「道を究める」べきだったのにと。だがどちらにしろ、先生の言いたい事は十分理解できるではないか。その言葉を生徒に語った時の彼の気持ちも、生徒に託した想いも想像できる。

一度何かを始めたら
 その道を極めなさい

ここまで変化して初めて、言葉はどこか教育的な雰囲気を醸し出す。

 −・−・−・−・−・−

八日お昼のTBS「きょう発プラス」では、小柄で童顔で中学生のような男性アナが誰かの敵を取ったかのように、その言葉の別の意味を解説していた。字面も同じ極道という言葉は、仏教用語では一般的に使われている意味とは正反対に、とてもよい意味で用いられているという。

「仏教」と「極道」で検索してみると、その意味と、その裏腹な印象をなげいた文章までがあっけなく登場した。

極道(ごくどう)とは…仏教本来の意味は全く逆で、仏教を極め、悟りの境地に達した人の事なのです。これほど正反対の意味に使われている仏教語も珍しい事ですが、…。

富蔵山金昌寺
 一口法話サイト→リンク

淡々と、呆れ気味に、そして半ば諦め気味に、仏教関係者は静かに嘆いていた。

ふむ、仏教と極道とは…。ある意味真逆で両極端な社会に見えるが、信仰心と結束と上下関係の厳しさでは皮肉にも似通っている社会と言える。上辺の印象だけで批判するのは、信仰心の薄い人々なのかも知れない。

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記事には、その言葉が彼の恩師に教えられたものだったと書かれている。彼もまたその言葉を授けられた一人の生徒だったというわけだ。

恩師がその言葉を彼に授けた時、「これは仏教の言葉であって…」ということなど、どうでもよかったのかも知れない。実際授けられた言葉の本質は、しっかりと彼に伝わっていたはずである。

しかし、現在の彼を取り囲む同僚の職員や先輩教師、それに彼の教え子の保護者にまでは伝わらなかった。彼が言葉足らずだったのか、それとも周囲の人々が高校時代の彼ほど繊細ではなかったのか…。言葉の本質を受け止めた一人の過去の生徒と、その上辺の印象に囚われた現在の周囲の人々。可笑しなほど対照的である。

記事には、彼が国語教師だとも書かれている。彼には可哀想であるが、一人の国語教諭がこの言葉の、“一つの語源としての仏教用語という背景”までを説明できなかったことは、ある意味悲しいことである。だが、そんな背景の存在をこれっぽちも考える人間が、周囲の教諭にさえ居なかったのかと考えると、それもそれで悲しいどころか情けない。やはり渦中真っ只中の教師が一番哀れでならない。

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一つの言葉に、いつのまにか覆い被さった上辺の印象とかけ離れた意味。それにまったく囚われなかった人、囚われていた人々、囚われ過ぎた人々、みな哀れである。恩師の嘆く顔が目に浮かぶ。

その恩師の想いを、教師が思い出してくれることを願う。囚われた人々などには囚われず、囚われた人々が抗議したように積極的に、自分がこだわった恩師の言葉にこだわって欲しい。すっかり消極的になっていそうで心配ではあるが…。
posted at 2005/04/09 20:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 報道批評
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