死刑の是非と千年後の宗教観

2005年04月06日
世界最大の宗教団体の頂点に座っていた一人の老人。その死を伝える報道が余韻のように津波のように地球を回り続けている。何度も何度も見ているうちに、宗教の始まるきっかけと発展の過程を想起し、やがて考えはある団体の千年後へとたどり着いた。

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三月二十日だったか地下鉄サリン被害者の追悼に際し、どういう立場なのかは忘れたが、加害者団体の気弱な幹部がマイクの前で絶句していた。

「言葉がありません」

事件直後その関与を一切否定していた彼らが、徐々に事実を受け入れて、次第にその罪の大きさを遅まきながら実感し、十年経った今頃になって言葉を失っている。

その姿を見ると、存在を完全否定していた私でさえ、自分の心が罪を自覚した彼らの姿勢に動かされ、理性ではそんなこといまさら言ったってと拒絶していながら、感情はその姿勢を認めようと動き始める。

そんな自分の感情が許せず、私は動揺している。 
 
実は彼らの控えめな姿勢の裏側には、「私達は賠償金をすでに数十億円支払いました」などと静かに主張を呟き、着々と社会に溶け込んでいる団体の姿が隠れている。

いじめっこがすっかり先生に叱りつけられ、しょぼんと反省している姿を見せた途端に周囲の同情を集め始める時の空気の変化のようなものを自らの中にさえ感じた。

頭は理屈を駆使して、必死にそれを拒んでいる。

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一つの量刑としての死刑の相場が下がっているらしい。
以前は三人以上殺さなければ死刑にならなかったのが、最近異例の判決が下ったと耳にした。殺人の人数だけではなく、その殺し方や残虐さまでを反映した裁定が下ったらしい。一足遅れのデフレの波が、大理石で固く守られたはずの司法の場にも押し寄せているということだろうか。

アメリカでは百年を越える刑期が存在するという。
「主文、被告人を千年の刑に処する」一人で複数の罪を犯し、何人も時には何十人もの人を殺め、その何倍の家族たちを悲しませ苦しませる被告に、罪の償いは全て合算されるからだ。死刑判決はその数百年の量刑の一番奥の彼方に待ち構えている。

片や日本では人を殺してもせいぜい二、三十年だという。二人殺してもさほど変わらず、重くなったとしても仮釈放可能な無期懲役が相場らしい。三人以上殺すとやっと死刑になるというが、その死刑と無期懲役の間には妙で不思議な隙間が存在する。

無限と錯覚するような無期などという表現の割りには、暗黙の期限が用意されている日本の死刑手前の無期懲役刑と、死刑ではなく具体的な量刑でありながら、受刑者にとっては無限の刑期を意味するアメリカの数百年の実刑とは、どうもあべこべのような印象が否めず、矛盾を感じる。そこに日本には存在しない終身刑を含めて比較すると、みかけの長さとその重さの順序にも矛盾が見え隠れする。

無期懲役とは、期限が無い懲役ではなく、期限を定めることの無い懲役としか言えない。まことに不思議な言葉である。

最近になってアメリカの司法制度を真似しようとしているのか、日本でも近い将来裁判員制度が導入されようとしているらしい。だが量刑の判断に合算方式や終身刑が導入されそうな気配は感じられない。

私は死刑に反対している。だが現在の日本では死刑廃止どころか、死刑判決が増えそうな予感さえ感じている。十年に一度現れるかというほどだったはずの残虐な犯行が、月に一度は報道されているからだろうか。犯行の残虐さに呆れる世間も、その動きにはあえて反発を避けている気がしてならない。

それでも私は反対している。だがどうせ死刑がこのまま存続されるというなら、死刑か無期懲役かといったシロかクロかという重刑判断ではなく、三十年か五十年か九十年か百五十年かといった刑を含む合算方式の導入を期待している。合算方式の長大刑期とその先に置かれる終身刑をどうして設けないのだろう。

裁判員制度を導入するならば、この際量刑のスケールも定義し直すべきではないかと思う。結局そのあらたな量刑を主文に書くかどうかは裁判員と裁判官の判断に委ねられる事になるが、用意された選択肢が二つ三つしかなかったら、微妙な判断を反映させる術を用意しないも同然であろう。そして時にはあえて死刑よりも重い刑として、数百年数千年の刑期の書き込まれた主文を被告に読み聞かせるといった刑だってあっていいのではと思う。

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では私はどうして今量刑を論じているのか。どうして死刑を反対しているのか。それは麻原裁判の行方を案じているからである。実際係争中の裁判の判決に、新たに導入された量刑制度を言い渡すわけはないと思うが、どうしても彼を死刑にしたくはないのだ。それは千年後の日本人とその宗教観を案じてしまったからである。

麻原彰晃をこの現代で死刑に処すことが、教団の教義の中での彼に対する定義付けを神秘的で伝説的な形に変化させ、後の教団信者たちにどのように影響を与えるかが、いまさら不安になってきたのだ。千年後の日本人の宗教観を案ずるなんて、誠に馬鹿げた話ではあるが、私は真剣である。

判決が下され刑が執行される頃、すでに事件より二十年が経っているはず。事件当時のあの騒動を、胎盤の中ですら聞くこともなく生をうけた次世代たちが、事件の主役たちと同じ世代になっていることだろう。

オウムという名の響きに、何の抵抗感も嫌悪感も持たぬその新しく免疫を持たない世代が、当時渦中にいた若者たちと同じ世代になった時、同じいや現代以上の虚無感に襲われて実行犯たちと同様の何かを同じ方向に求め、インターネットなどを伝に再び集い、そしてその頃教団の内部では、死刑囚はいつのまにかキリストの再来などと解釈が変化しているかも知れない。

事件の捜査に当たった警視庁はどこかの大帝国に似せて大いなる弾圧勢力となり、死刑判決はキリストの十字架の再現なんてことにもなりかねないだろう。想像と危惧は後を絶たない。

最終的に結審を迎え死刑が実施される時、話に聞いていた自分達信者全員の罪を一身に背負う麻原彰晃こと松本智津夫が、電気椅子かベッドの上で刑死する。その光景を目の当たりにせずとも同じ時代その瞬間にその死を実感した信者たちは、その単なる一死刑囚の死に限りない意味をつけたがり、添えられた言葉は勝手に膨張をはじめ、新たな意味と言葉を吸収しながら猛烈な速度で拡大していくかも知れない。

渦中の彼に、それが偽物だろうと十字架を背負わせてはいけない。

実際死刑というもの、被害者家族には納得できないだろうが、誰が何と否定したとしてもどこか仕返しという意味が含まれている気がしてならない。遥か昔のどこかの町の町外れでの裁きのような、町中の人々の前で行われるさらし首のような。

数百年の刑を課し、その間火葬すら許さないといった裁定も、私には一つの選択肢として頭に浮かぶ。もしかしたら、数百年罪を背負わせその死も許さずに置く事は、どんな罪よりも重く感じるのではないだろうか。

ドラマ「トリック」でも登場したようなプロットを思い出す。
宗教の始まりなど、実は意外と何気ないものなのではと思っている。特別な能力を持った一人の人間の特別な言葉と、その言葉に感心し妄信を始める周囲の人々と、その後虚無感孤独感に耐える術を求めその御言葉を求めた人々の力を借りてさらに膨張する。

何気ない一つの言葉や教えに何かのきっかけが結びつくと、その言葉や教えはその言葉の主に大きな信頼を与えることにもなるだろう。だから余計に、私は死刑を反対する。特に彼の死刑だけでもやめて欲しいのだ。

彼の言葉や教えに予期せぬ力を与える「きっかけ」を、与えたくないからである。そんなきっかけを得た時、団体の発展は第二段階に入ると思われる。

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実際二千年前のキリスト教の始まりと発展のきっかけだって、どんなものかは誰も知らない。ダビンチ・コードは読んでいないが、マリア様と彼女の子供の父親のことを考えると、そこに何か隠された罪があるように思えてくるからだ。

ある日女性には子供が出来る。女性はやがてお腹を痛めてその子を産むが、実の父親はそこに存在せず、いつのまにか途轍もなく偉いお方が父親ということになる。実の父親は、女性に産む痛みだけを残して罪と共にどこかに消えている。

まるで、横溝正史の回想場面のようである。彼の描いた時代がそうであったように、二千年も昔ならば男女間の問題も今とは比較にならないほど大らかだったものと考えれば、母親と実の父と義理の父のような関係も大して不自然な話ではない。

まったく、「ナントカ・コード」なんて本が一冊書けそうなほど想像は勝手に膨らむ。狂信的な信者に殺されたくないので、私はこれ以上の想像を止める。

とはいえ想像なんて、するものではなく浮かぶものである。止めても止めても浮かんでくるのはどうしようも無い。

posted at 2005/04/06 08:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑題雑想
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