早過ぎる死を悼む表現方法

2005年04月03日
NTV深夜の報道番組NNN24では、仙台市の繁華街で起きた暴走事故を伝えていた。昨日繰り返し放映されたアーケードに止まるトラックの映像が流れた3日5時3分、画面にいつから用意されていたのか、数秒間の出番を得たテロップがさも突然のように現れた。

ニュース速報
ローマ法王 ヨハネ・パウロ2世が死去(伊・ANSA通信)

女子アナは小さなニュースを一つ読み終わり、その瞬間まさしく世界中を駆け巡っているだろうニュースの原稿を、何一つ慌てる様子もなく読み始めた。世界中でたぶん最も多くの人々に悼まれるはずの老人の死を伝える記事である。彼の人生を短くまとめたVTRが、やはり用意されていたかのようにごく自然に流れた。

それにしても、ニュース番組の画面に現れるニュース速報テロップというのも変な話である。
 
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日本人という人種は、なぜか死に接する時だけはいつのまにか仏教徒になる。そんな日本人はあまり使わない表現だが、クリスチャンの人やキリスト教に近い考え方の人が、早すぎる死を迎えた幼い故人にまつわる話をする時によく使う表現があると聞いた。

幼過ぎる死、早すぎる死で天に召された子供の周囲の人々に対し、「きっと、神様に愛され過ぎてしまったのでしょう」とか「きっと神様が、お近くに必要とされたのでしょう」などという表現である。

確かに小さな小さな棺の葬儀というもの、その家族の悲しみは計り知れず励ます言葉などそう簡単には浮かぶわけがない。「どうして?」という途轍もなく重厚な問いに、誰も優しく答えることはできない。そこに、きっとそこに、何か特別な意味があるとしか言いようが無いが、それが何なのかは優しいはずの神様さえいつまでたっても教えてくれない。

考えてみれば、人の死が一体何歳だったらその死が早過ぎると言われ、人がいつまで生きたらそれは十分全うした人生と言われるのだろうか。そんなことをはっきり定義できる人などどこにもいない。それどころか、人がどうして死ぬのか、はたまた人はどうして生まれてくるのかさえ、誰も答えてくれない。

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ところで先の、「きっと、神様に愛され過ぎてしまったのでしょう」なんて表現も、故人が大往生した年寄りの場合は…などといって、ちょっと言葉を入れ替えただけで使うと大変なことになりかねない。

1920年5月18日ポーランドで生まれたローマ法王ヨハネ・パウロ2世は享年84歳。

「もしや、神様にそんなに愛されてなかったんでしょうか」

ある意味世界中で最も大きな人生を全うした一人の指導者の死に、世界ではどんな表現が使われるのだろう。

「きっと、それは大きく長大な使命を託されていたのでしょう」

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記事が少々ブラックに感じられるかも知れないが、死後の世界を信じる無神論者の私には、ブラックでも何でもない。それより一つ疑問がある。宗教者も輪廻転生し生まれ変わるのだろうか。チベット仏教のダライ・ラマとも接見があったらしいが、宗教者ならばやはりダライ・ラマのようにもう一度宗教者になる為に生まれ変わると考えるほうが自然なのだが。

どっちにしろ、少し天国でゆっくりお休み下さい。「さっさと人間界に戻ってもう一働きして来なさい」なんて神様に言われるまで、のんびりさぼっててもいいんじゃないですか。

「ん? クリスチャンって、生まれ変わらないんだっけ?」
posted at 2005/04/03 06:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 報道批評
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