短編「忘れ物」

2005年03月28日
「工場」という漢字は、それが大きい場合は「こうじょう」と読まれ、小さい場合は「こうば」と読まれる。「町」という看板を掲げると大抵「まちこうば」となるが、字数に反比例してやたら寂しい雰囲気が漂いはじめる。

「工場」という字面は何も変わらないのに、読みが違うだけでその二種類の発音が醸し出す匂いと響かせる音と、そして呼び起こす風景はまったく異なるものである。ちなみに私は、小さい方を使用した。
 

  忘れ物

 聞き込みを終えると、二人の刑事は工場の出口へと向かった。

 狭い作業場に並ぶ油まみれの機械を気にもせず、年配の刑事はさっさと外へ出た。若い刑事は油や埃を気にしながら、歳の離れた先輩の後を追った。まるで洞窟を脱出してきたかのように、小さな灰色の空をちょっとだけ仰ぎ戸口に立ち止まる二人に、油の染み付いた初老の職人が追いつき言った。
「お役に立てませんで、本当に申し訳ございません」
 いつのまにか自分達の背後で頭を下げていた職人に気づくと、刑事は慌てて答えた。
「いえいえ、お気になさらずに。もう署に急がねばなりませんから、これで失礼いたします」

 刑事は軽く頭を下げ、やっと車へと歩き出した。壁際に置かれた花台の上で、等間隔に整然と並んだ枯れ鉢が職人と共に二人の刑事を見送っている。工業油のこびり付いた靴底を何度もアスファルトに擦りつけながら、若い刑事が運転席のドアを開けた。しみだらけの作業服に身を包んだ灰色の職人は、二人の後姿に向かい深々と頭を下げたまま動かなかった。

 二人は黙って車に乗り込んだ。二十代後半の若者は茶色いジャケットの裾をちょっと気にしながらエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。一つ目の角を曲がり、職人の視線から開放されるのを待っていたかのように、五十過ぎの刑事に話しかけた。
「手ぶらじゃ、署に帰りにくいんですが…。しょうがないってことですか」
窓の外を眺めながら、先輩刑事は答えた。
「まぁな、三十年近くも会ってないんなら無理もないだろ。どうせ帰ってるとは思ってなかったし、あの分じゃ嘘もついてなさそうだ。まぁ最初から当てにもしてなかったことだし、しょうがないだろう」

 刑事はそれっきり何も言わなかった。腕を組み窓の外を眺め続ける視線の先を、色気の無い小さな町工場が次々と走り過ぎる。似通った作りのそれぞれの作業場の中で、たった今別れたはずの初老の職人たちが、何度も現れては消えていった。工場と電柱と、低くどんよりとした雲までが溶け合い、灰色の風景は境目を失っている。二人の沈黙はしばらく続いた。

−・−・−・−・−・−

 車が国道に入ると、街並みはいつのまにか色を取り戻した。コンビニ、ファミレス、和食レストランが見渡す限りのさばり、所々に大きな本屋と中古車ディーラーが割り込んでいる。派手な看板は不揃いな並木道のようにいつまでも続いた。

 そんな風景に刺激されたのか、ずっと横を向いていた刑事がふとYシャツの胸ポケットを右手でまさぐり、再び腕を組むとぽつりと喋り出した。
「いやぁ、参ったな」申し訳なさそうな言葉の割に、刑事の声と口調は平然としていた。地味な刑事とは対照的に、明るい若者はあっけらかんと問い返した。
「どうしたんですか?」
「いやぁ、ちょっと忘れ物をな…」
「ああ、写真ですね?」
「えっ」年配の刑事は言葉が詰り、少しだけ後輩の方を向きかけたが、またすぐに窓の方を向きそのまま黙ってしまった。
「重要参考人の写真をですよ、聞き込み先に置き忘れちゃいけませんねぇ」
若者は意地悪く、ここぞとばかりに笑いながら言った。あまりに思いがけない突っ込みに刑事は戸惑いを隠し、言い訳がましく再び喋り出した。
「いやぁ、あのおやじさんの顔色見ながら色々尋ねているうちにな、写真のことをすっかり忘れちまったよ。いつのまにか胸のポケットにしまったと勘違いしてな。結局あの工場の事務所に置いてきちまったらしい」

 車は信号待ちで止まった。刑事は相変わらず横を向いたまま窓の外を眺めている。
「でも珍しいですね。先輩ともあろうベテランが、大事な捜査資料を忘れるなんて」
若者は先輩の後頭部にそう言うと、胸ポケットから煙草の空箱と写真を二枚おもむろに出し、ダッシュボードに無造作に置いた。

 刑事は横を向いたまま再び言い訳を続けた。
「まさか忘れるとはなぁ…。一応な、聞き込み込み先に忘れちゃいけないと思ってな、今日に限って複写を用意したんだが…。まさか本当に忘れるとはなぁ」
言い終えると同時に、国道の短い信号は青に変わった。刑事はジャケットのポケットから一枚の写真を取り出し、ダッシュボードに無造作に置いた。それを待っていたかのように、若者はその写真を一瞬だけちらっと確かめ、微かな笑みを浮かべながらアクセルを踏んだ。

−・−・−・−・−・−

 国道から細いバス通りへ入ると、若者は急に車を止めた。
「すいません。ちょっと煙草買ってきていいですか?」
そう言い終えないうちにドアを開け、返事も聞かずに若者は慌てて飛び出していった。ドアが閉まると、刑事はダッシュボードに手を伸ばした。酒屋の店頭を占領した何台もの自販機の前を若者が何度も行ったり来たりしている。その動きを視界の隅っこで感じながら、刑事は写真の中の六つの笑顔をじっと見つめていた。
車の外で「ゴトン」と煙草の落ちる音が響くと、刑事は写真をダッシュボードの上に戻した。「ゴトン」という音がもう一度響き、若者は運転席に戻ってきた。
「すいません」そう言うと同時に慌しくエンジンをかけ、二種類の煙草をダッシュボードの上に置くと、若者は車を発進させた。
「悪いな。署に戻ったら払うよ」
「いいですよ、いつでも」

 賑やかなバス通りの両側に、路上駐車の車が点々と並んでいた。その車を避けるたびに、一つの空箱と二種類の煙草の箱と三枚のカラー写真が、埃りだらけのダッシュボードの上を車の動きに合わせて左右に滑っている。歳の離れた二人の刑事の前を、写真と煙草が行ったり来たりを繰り返している。

 通りの先に署の見慣れた看板が小さく現れると、刑事がやっと前を向き言った。
「お前、今晩空いてるか?」
唐突な言葉にちょっと驚き、刑事の顔を覗き込みながら若者は答えた。
「え? 何ですかいきなり。空いてますけど…」
やや明るくなった刑事の表情と進行方向に、忙しく視線を振り分けている。
「いや、今夜な、孫が来るんだが…」
「孫って…あぁ、初めての初孫のお孫さんですね」
「ああ、初めての初孫の孫ってやつだ」
変な言い回しに刑事は思わずにやけ、意地悪に繰り返しながら頷いた。若者も自分の言い回しのおかしさに気づき、笑いながらあえて続けた。
「で、その初めての初孫のお孫さんが、初めての息子さんを連れて来るってことですね」
「そうだな、孫が息子を連れて来るってとこだな。変な話だろ。まぁ、ついでにお前も紹介してやろうと思うんだが、いいだろ」
「了解しましたっ」若者は低く真面目な声で答えた。

−・−・−・−・−・−

 署の名前が書かれた信号を右折し、どこかの組員のような厳つい門番の敬礼を受け、敷地の奥へとゆっくり進む。若者は一番奥のスペースに車を一旦止め、神経質に何度も切り返しを始めた。風景が動かなくなるのを刑事はじっと待った。脇に立つ電灯が彼らを真上から照らしている。若者は満足げにエンジンを切ると、静かになった車内で呟いた。
「ちょっと場違いな気もするんですが、一人じゃバツが悪いってことですね」
早々と降りようとする若者に、刑事が答えた。
「極上の寿司取ってやるから勘弁しろ」そう言いながら、煙草と写真に手を伸ばした。 

 弱々しい電灯の明かりが、ダッシュボードを照らしている。その淡く優しい光の真ん中に、同じ構図の親子の写真が浮かびあがっていた。その三枚の写真の中で、油まみれの作業服に身を包んだ青年が幼い男の子を抱き笑っている。

 刑事は遅れて車を降りると、先に歩き出した若者を呼び止めた。
「おーい、忘れ物だ」
若者に煙草と写真を渡し、刑事は灰色の建物へとゆっくり歩きはじめた。

こんな短編は、いつしか短編集の一員になれるのだろうか。とりあえず今のところ、新規のカテゴリーを一つ増やそうか迷っている段階である。次のネタはすでに固まっているのだが…。
posted at 2005/03/28 07:16 | Comment(2) | TrackBack(0) | 語部修行
この記事へのコメント
また長いことお休みしてらしたから
寝込んでいるのかと・・・。よかったよかった。
最近、ブログのお友達がパートやら、再就職やらで
環境がかわったうえに、どうも体調のよろしくない方が多かったものですから、・・・。

本は苦手じゃなかったですか?

なんだか2時間サスペンスのエンディングを
みているようなお話ですね。

コメントも長いですから私なんてブログまで
長編です。(笑)短編書けるのはすごいです。
頭のなかで状況が絵になるくらいわかりやすいですし。
また、楽しみにしてますね。
Posted by Ageha at 2005年03月28日 08:19
いやいやAgehaさん、お久しぶりです!

それも、
こんなに早朝からこんなに長ったらしいモノをじっくり読んで頂くとは…。

本は相変わらず苦手ですよ。実際ほとんど読んでませんしね。まぁ何冊か埃だらけの“お気に”の古い本を引っ張り出して文体とかチェックしながら参考にしましたが…。

ご期待に沿えるほど書いていけるのか、いやそれほどの内容なのかは判りませんが、何かを書き記したい、何かの作品に表したい、一つの物語に仕上げたい…と、そんな気持ちばかり先行してまして、ネタ帳ばかりが膨らんでます。
Posted by 映太郎 at 2005年03月28日 09:10
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