瞳の中に誰が映っていたのか

2005年02月03日
彼は再び、赤ん坊の父親になった。



彼にとって、父親になることはそれが初めてではない。三回目のことである。すでに小学生になった息子と娘がいるし、彼らにとっても自分たちの弟ができたことになる。妻も含め四人の家族にとっても少し遅い五人目の一員である。

しかし彼にとってはどこか特別な子だった。
 
その子は体がとても弱く、いつまでも手がかかった。生まれてからかなりの日数が経っても、付きっ切りの世話が必要だった。なぜか彼は家族の誰にも触れさせず、たった一人で育てることにこだわっていた。

やがてハイハイができるようになり、家の中でも活発に遊び周われるほど元気になると、そんな姿に安心したのか、家族にもやっと協力を求めるようになっていった。彼と妻と息子と娘の家族全員でその末っ子の成長を見守る日々が始まった。



その子はどんどん大きくなった。歩けるようになるや否や彼と一緒に散歩に出掛け、お兄ちゃんと一緒にはしゃぎ回り、風呂上りにはお母さんに拭かれ、お姉ちゃんと一緒にすやすやと眠る。家族の一員としてのそんな生活では、お喋りがまだまだ不十分でも、会話は何の不自由もないものだった。家族にとっては笑顔だけで十分だった。

妻の代わりに育児休暇を取った彼もやがては仕事に復帰した。それと同時に、その子を職場にまで連れ出し、自分の仕事の合間も惜しんで父一人構い続ける。結局ほとんど毎日一緒に連れ歩き、いつの間にか彼の生活の全てが、その子の為に回っていた。



いつしか彼のその姿勢とそのあまりに過保護な育て方が、問題となり批判にさらされるようになる。大きくなっても彼一人に甘え続け、一時も彼を離れないようとしないその子の姿に、彼もやっと少しずつ悩みはじめていた。自分が居ないと苦しむだろうと近くで見守っていたはずなのに、実はいつまでも近くで見守っていた自分自身がその子を最も苦しめていたことを彼は確信する。

その瞳の中に自分が映っている限り、結局その子の苦労はずっと続くのだから、そこに映り込む自分自身が消えなければいけないのだと。そしてついに彼は別れを告げる決心をする。



その晩いつもと違う何かを察したのか、彼の手を離そうとはしなかった。彼の温もりをいつまでも感じていたいのか、必死に手を伸ばし大きな瞳で哀願する。柵ごしに光るその大きな瞳の中には、やむなく置き去りにする彼の姿が映っている。

「サヨナラ!」

別れを告げた彼の小さい瞳の中で、一頭のホッキョクグマが泣いていた。一人残されたホッキョクグマの子供は、声が枯れるまで一晩中泣いていたという。









その時の彼に感情移入した私は、途方も無い孤独感を想像してしまいむしょうに悲しくなった。彼とは、飼育係りの彼ではなく、ホッキョクグマの彼である。

NHK≪にんげんドキュメント≫
「ピース5歳〜日本初ホッキョクグマ哺育物語」

映像には、一人の飼育係りと哺育に協力した彼の三人の家族と、そして一頭のホッキョクグマの子供ピースの姿が映っていた。しかし、ピースの瞳の中に一体誰が映っていたのかは、触れていない。

どう考えたって、ピースの瞳の中に映っていたのは高市敦広さんという名の人間でもなければ、飼育係りのおじさんでもないし、人間の着ぐるみを身にまとった親ホッキョクグマでもない。私にはとてもそんな風には思えなかった。

彼ピースの瞳の中に映っていたのは、紛れもなくピースの母親であり父親であり親であろう。

 −・−・−・−・−・−

こういった動物に関するドキュメンタリーもよく観る方なのだが、今回の映像はちょっと残念でならない。映像というよりも、実際の動物園の姿勢にがっかりしてしまった。

彼らの人口哺育の苦労も否定はできない。
しかし、タンチョウヅルの人口哺育に携わる人が、その親の姿に似せた着ぐるみをまとって接するといった事例も存在すると聞いている。

そのある意味中途半端である意味極端な冷たい哺育姿勢に疑問を感じた。どこか温かく、でも実際は物凄く冷たい一面が隠れたいつも笑顔の友人の性格を、ふと知ってしまったような寂しさを味わっている。

 −・−・−・−・−・−

内容に関しては少々大げさでもあり、想像も加えて書いている。実際の別れはそんな大げさなものではなく、飼育係りと昼夜ずっと共に生活していたホッキョクグマの子供が、その日を境にして一頭のホッキョクグマとしておりに閉じ込められるといった別れである。何も永遠の別れなんてものではない。

ただ、その最初のたった一晩の寂しさも、彼ピースにとっては永遠に思えたかも知れない。そんなことは私達の誰もわからないはずである。ちなみに、声が枯れるまで一晩中泣き続けたという話は、番組中で紹介されていたコメントである。

番組の内容と詳細は、サイトでも紹介されている。

NHK≪にんげんドキュメント≫
「ピース5歳〜日本初ホッキョクグマ哺育物語」
愛媛県立とべ動物園で生まれたシロクマ“ピース”の五年間に渡る日本初の人工哺育の様子を、飼育係高市敦広氏の家庭にまでカメラが密着して制作されたドキュメンタリー。
NHK総合2005年2月2日再放送
サイト⇒リンク

ホッキョクグマは動物園でも水族館でも人気がある。元々私も好きな動物であるし純粋に観ている分には愛らしさについ目を奪われ楽しめた。でも、そんな見方のせいからか余計に、変な感情移入をしてしまったのかも知れない。
posted at 2005/02/03 06:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 放送批評
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