ピロリ菌に血と洗礼を考える

2006年05月16日
 兄の胃袋からピロリ菌が見つかったという。

 医者には、“ご兄弟がいらっしゃるのなら是非連れて来なさい”と言われたらしい。ふむ、出来はかなり異なるとはいえ、基本的には生理的構造になんら変わりはないはずだからなのだろう。

 兄が潰瘍になったのなら私も潰瘍になるのだろうし、兄が癌になったら私も癌になるらしい。

 まぁ兄が弟を欲しがったから現在の私が存在するのだ。物心ついた時からずっと兄を憧れ、兄を真似し、兄の価値観を踏襲して育ってきた。兄がもし癌を患うのだとしたら、私も願わずとも同じ道に嫌悪感は抱かない。
 


 ところで先日、遅ればせながらiPodを買った。
 
 購入直前、相談したのはもちろん兄だった。マッキントッシュのメイン機種が、まだモニター一体型だったころからのアップル派の兄に、シャッフルかナノかどちらがいいか聞いてみる。

「ナノはどうせタイトルが出るだけだしねぇ…、シャッフルで十分じゃないの?」

 兄の言葉には素直な弟はその言葉で即決する。

「じゃシャッフルにしよっと。」

 で、話題は機種選択や本体の事からイヤーフォンの形についてに変わった。

「あの耳に引っ掛けるタイプって僕の耳には合わなくてさぁ」

 そう言ってるそばから気がついた。

「そっか、耳の形なんて一緒だしねぇ…」

 案の定兄もあの耳たぶに引っ掛けるタイプが合わないらしい。すぐ落ちるからソニーのヌーダがいいなどと言っている。

 ふむ、ピロリ菌が兄弟の繋がりをふと教えてくれたが、ついでにiPodのシャッフルまでが兄と弟の絆を知らしめてくれた。



 さてそんな話は先日母の日に実家を訪れた際のことなのだが、その際母がおかしな話を聞かせてくれた。

「パパがねぇ…、洗礼受けるらしいわよ」

 えっ? はっ?? なぬ〜っ???

 今、父は栃木で独り隠居生活を送っている。その父が突然そんなことを言い出したのだという。

 何をいまさら血迷ってんだか…。

 宗教などとはまったく無縁な人生観を抱いていたとすっかり思い込んでいたのに、知人の勧めで死ぬ直前になったら牧師を死の床に呼び出し、枕元で洗礼してもらうと言い出したらしいのだ。

 なんでそんなこと考えるようになってしまったんだか。まったく想像がつかなくて笑ってしまった。

 まぁ原因は少々思い当たるところもある。

 長年西洋音楽、主にクラシックを研究していたのだが、まぁ西洋クラシックの特にヨーロッパの作曲家はほとんどがキリスト教の信仰心を背景に曲を書いているだろうから、いつのまにか研究の果てに価値観まで染み付いてしまったのかも知れない。とはいえ、息子にとってはやはり“何をいまさら?”なのである。無宗教だとずっと思いこんできたのに…。

 拠り所を何も持たずに生きてきた父を拠り所にして生きてきた息子が、何か突然拠り所を失った気分である。

 ただ、実は笑ってしまった理由はそんな意外性だけではなかった。そんな父の洗礼の話を聞く数日前、実は私も自分の洗礼の話をしていたのである。

「洗礼でも受けて、洗礼名貰おうかな…^^) 気にいらなきゃキャンセルすりゃいいし…」

 形から入る人間はそんな程度の感覚で洗礼を受けようか迷っていた。

 確か久しぶりに映画「野のユリ」を観て、ポケットから携帯用の小さな聖書を引っ張り出すシドニー・ポワチエがカッコよく感じていた先週のことである。

 ちなみに、宗派は何でもよい。池袋の教会にはデカいパイプオルガンもあるし、どうせならアソコがいいなぁってなモンである。

 私の宗教観なんて、所詮そんなモンである。

 宗教なんて、表現手段がちょっと異なるだけで、表現している内容は何も変わらない。言っていることはみな同じなのだし。



 話は母の日に戻るが、そんな意外なことをのたまい出した父の話をしているうち、母と各宗教に関する話になった。

「だいたいキリスト教なんてさぁ、みみっちいよ、まったく。お願いしてチケット貰った人でないと“天国”入れてくれないしさぁ。それにくらべて仏教のなんと寛容なことか。“祈らず、信じず、人の道を外れ悪を尽くしたような人こそ、その地に導かれる”なんて考え方はキリスト教にないからねぇ」

 キリスト教に対してイヤミを吐く私に母はボソリと言った。

「でも仏教ってお金掛かるし…」

 確かに。それを言われると何も返せん。キリスト教の葬式って安上がりだしなぁ。

 こんな理由で洗礼うけて、天国に本当に導かれるんだろうか。少々不安になってきた。



 あぁそのうち、父が洗礼を受ける日も来るのだろう。まぁ本人が希望するなら何教だろうと何宗だろうと構わない。

 葬式なんて残された人の為のモノなのだと思えば、残された人の信じる宗教で執り行われるのも一つの形ではあるのだけれど、とはいえ本人が信じたモノを尊重するとすれば、本人の信じた宗教で執り行われることのほうがやはり自然なのだろう。安上がりな宗教を選んでくれた親の意向を尊重することにするか。

 で、ふとその日枕元に現れるかも知れぬ、まだ名も知らぬ牧師の言いそうな台詞がふと浮かんできた。

「ご家族には他にも無宗教だった方はいらっしゃいますか?」
「えっ? まぁ、確実に一人は…」
「では是非連れていらっしゃい。ついでに洗礼してあげますから」

 兄の価値観を真似たごとく、いやそれ以上に父の価値観を踏みツケながら育った私である。私自身の“その日”が来そうになったら、きっと同じことを考えるのだろう。

 出来はかなり異なるとはいえ、価値観はほとんど変わらないのだし。
posted at 2006/05/16 06:09 | Comment(4) | TrackBack(0) | 死生私観
この記事へのコメント
映太郎さん、こんばんは。
>宗教なんて、表現手段がちょっと異なるだけで、表現している内容は何も変わらない。言っていることはみな同じなのだし。

御意にござります。

>「でも仏教ってお金掛かるし…」

ご母堂さまナイス!
 
Risuにはまっこと勉強になりまする。

ピロリ菌、私も大切に培養中?です。(≧∇≦)

Posted by Risu at 2006年05月16日 23:25
Risuさん、毎度です!

女の子との初めてのデートでさえ、宗教についての話と、死についての話で一晩でも話し続け結局南極それで終わってしまう人間です。あまりその手の話に振らないように…。振られてしまいますしねぇ。

まぁ相手が相手でその気がその気ならば、同じ宗教と死に関してでも、ロマンチックに話を進めるだろうけれど…。

で、まだ元気な母親を、“ご母堂さま”とはまだ呼ばれたくはありません。

世の中、そんな呼称は“その日”だけなのですよ。

その日、つまりは、誰もが自分の親を“ご母堂さま”とか“ご尊父さま”などと呼ばれる日が必ずや誰にも来るのだけれど、考えてみれば自分自身だってそう呼ばれる“その日”が来るのだし…。

でも、そんな“呼称”もなく、“請求書を持たなくとも領収書は持っている宗教家”もなく、線香もなければ蝋燭もなく、戒名もなければ芳名帳も香典帳もなく、墓もなければとりあえず骨壷を置くダンボールの祭壇もない。

もしや自分だってそんな死に方をするかも知れない、…。

うぅぅぅ、


「だからぁ〜、
 人生、ロマンチックに逝こうよ〜!」

今さら遅いか…。
Posted by 映太郎 at 2006年05月17日 03:00
稚文陳謝!

尊敬する映太郎さんの母上だから「ご母堂」と記しましたが、何かお気に障りましたでしょうか?

私はいわゆる“宗教をする人”ではないし、自分の死に方を考え付くほど想像力も豊かではないので…。
映太郎さんのお話、面白いです。
でもそれを言っちゃあ逝けないのですね?(笑)
はい、了解いたしました。

Posted by Risu at 2006年05月17日 13:38
尊敬する…の気遣いもちゃんと判っていますし、そんなログをふと使ったあなたが気になるわけではないのです。

ただ、その言葉が頻繁に使われるその日のその状況を想像してしまい反応してしまっただけですよ…^^)

毎回、毎記事、Risuさんのコメントが楽しみであり、励みであり、そしてまた、何かを取り上げてまたあらたな記事にしようかなぁと、つい思ってしまいます。コメントが次の“書く意欲”に繋がるのです。

いつもいつも、コメントをどうもありがとう。
Posted by 映太郎 at 2006年05月18日 00:01
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