歪んだ被写体の中の歪んだモノ

2006年04月14日
 先日、知人が―とはいえネット上ではあるが―カメラ片手に京都に出掛けたと聞きふと振り返った。自分が始めてカメラ片手にその地を歩いた中学時代のことを。

 手に抱えていたのは確か父から払い下げられた、KXとかいうペンタックスだったと思う。いや、もしやそれ以前のヤシカのバカ●ョンカメラだったか。

 一体あの頃の自分が京都で何を撮影したのか。思い出そうにも思い出せないし、写真とて今や見当たらないのだが、ただ一枚だけはよく覚えている。

 まるでM・C・エッシャーの“球体を持った自画像”のように、構図の中心には歪んだ“私”が写っていた。
 


 中学3年の時に出掛けた修学旅行の京都で、私が撮影した写真には人というモノはまったく写っていなかった。
 由緒あるお寺の屋根瓦だとか、どこかの渡り廊下に連なる灯篭だとか。とにかく考えていたのは観光客や友人が写らないようにすることだけ。

 きっと、父の書斎に飾ってあった渋目調のモノクロ写真に影響を受けていたのだろう。父親の飾る写真はみなそんなものばかりだった。
 さらにその構図の元を辿ってみれば、当時父が定期購読していた“月刊アサヒカメラ”に掲載されていた写真なのかも知れない。

 ふむ、余談ではあるが、考えてみれば私もアサヒカメラをよく定期盗読していたっけか。その年頃の男の子が一番気になる被写体の一番気になる構図の写真もたっぷり掲載されていたことだし。
 まぁこのご時世と比べれば、それらは前世紀のごとくソフトではあったけれど。



 そんな私―もちろん定期盗読していた方の私ではなく、父の書斎の写真を眺めていた方の私である―が、何日かの京都滞在の最終日、新幹線の駅に向かう直前の最後の景勝地を出発する寸前に撮影したのは、バス駐車場脇の一本のカーブミラーだった。

 東京への帰路が始まる寸前、今から思えば少し寂しくなったのかも知れない。ふと滞在期間を振り返れば自分が写った写真はそのカメラに一枚も撮影されていなかったことに気づき慌てたのだろう。

 現像して譲る予定の友人の分の写真もなければ、誰かに頼んで撮影してもらった自分の写真も収まっていないカメラ。

 なぜかよく覚えているのは、バスに乗り込む友人たちを尻目に慌ててカーブミラーの前に立ち、その丸いミラーの中心に自分を据えてシャッターを押したこと。

 あの一枚の“カーブミラーの写真”に写っていた自分自身は凸面鏡のせいで小さく、孤独で、そして酷く歪みカメラを構えていた。ファインダーを覗く姿勢のどこかが、きっとかなり歪んでいたのかも知れない。カメラはそんな小さくて孤独で、さらには歪んだ自分自身をしっかりとフィルムに収めていたわけだ。



 最近ではデジカメの普及のせいか、“写真を撮る”という行為がまた見直されつつあるらしい。

 メカ好きの男の子ばかりだった中学や高校の写真部は、女の子の部員が急増しているという。

 カルチャースクールなどでは、カメラ抱えた団塊定年世代がデジカメ持参で趣味悠々しているらしい。

 さらには今に始まったことではないけれど、女子中高生たちは相変わらず携帯やプリクラで自分達を日々記録し続け、友人同士で見せ合っているらしい。

 今や再び、“一億総カメラマン”ってわけだ。まぁ時代は変わり、今や一億とは云えないせいかそんな言葉は誰も使わない。



 ところで、ニワカカメラマンたちの撮影した写真をそれぞれ10枚ほど見せてもらえば、それぞれの人が、その写真の撮影日に一体何を自分の生活の中心に据え何を大切としているかがわかりそうな気がしてくる。

 花の写真ばかりの人は、花が好き好きで堪らない人のように思えてくるだろうし、友人や自分の顔写真ばかりの人は、友人や友情が一番大切か、もしくは人付き合いや世間体が一番大切なのかなとも思えるだろうし、とりとめもなく傾向の定まらない写真ばかりの人は、趣味も嗜好もとりとめなく傾向定まらないのか、もしくはカメラ自体が好きで被写体なんてモノはどうでもよい人のように思えるだろうし…。



 かく辛辣にかく云う自分の写真は、他人に見せると一体どんな風に見えるのだろう。一枚一枚の写真ではなく、一連の写真を見せれば、私には見えない私が見えているはずである。

 中学の頃あれほど歪んでいたのだから、今ではもっと歪んでいるのかもな。或る意味下手な占いよりよほど正確に言い当てられそうである。恐ろしい。

 自分のブログに掲載した画像一枚一枚の特徴を冷静に書き並べてみれば、自己判断できそうであるけれど、そんなことやはり恐ろしくてできない。

 それは未だに小さくて、孤独で、歪んで…いるように見えるのか?
posted at 2006/04/14 02:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑題雑想
この記事へのコメント
映太郎さん!おじゃましま〜す。(笑)

とある写真家さんが、私の写真を見てお逢いしたことないのに、大体性格まで解りますよ〜とおっしゃったことを思い出しました。(笑)

今通っている写真教室の先生も、名乗らなくても写真見れば大体誰が撮ったか?検討が付くそうです。

ん。確かに撮る癖というか?その人となりって写真には現れると思いますね。(苦笑)まだまだ自分は未熟だから誰がどれ?ってのは解りませんが、あの人が撮ったんだって!と言われると、ああ、納得!という「雰囲気」は確かに写真から溢れてます。

私ももっともっと古い写真を探してみようかなぁ?なんかもっと色々見えそうな気がする。
Posted by KaN at 2006年04月15日 15:45
KaNさん、毎度どす!

先月放送されたETV特集「木村伊兵衛の13万コマ〜よみがえる昭和の記憶」という番組の中で、あのアラーキーこと写真家荒木経惟氏が力強く語ってました。

「懐かしさを感じさせない写真はダメだね…」
なんか判るような判らないような…。

写真を観てふと“懐かしさを感じる”ことはあっても、ではいざ写真を撮る側として“懐かしさを表現”するということを考えると、やはり難し過ぎてピンときません。

なんなんでしょうねぇ。
Posted by 映太郎 at 2006年04月15日 17:56
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