朝は紅く夕には白くなるもの

2005年01月17日
その文章をはじめて耳にしたのはいつだったろうか。

はじめはわけもわからず、耳から耳へと通り抜けていた。だが一旦その意味を知ると、その中に散りばめられた言葉は、少しずつ耳に留まりはじめた。

内容を知れば知るほど、その言葉は私の頭の中へと染み込み、いつしか頭の中から心の底へと溢れていった。

御までが付けられたその恐れ多き文章は、今から約五百年前に書かれたという。
 
 御文章

人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそ儚いものは、あっという間に迎える人生の最期である。

いまだかつて何万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものであり、現在でも百年を生きることは難しい。

自分が先になるか、人が先になるか、今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。

そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない

無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失い、そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。

さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。

ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。

恐れ多いことよ、恐れ多いことよ。

蓮如上人という五百年前の僧が書いた手紙形式の教えの中の一文だという。その教え一つだけが際立ち、現在では浄土真宗の葬儀などで必ず唱えられている。

いわゆるお経とは異なり、実際に唱えられる言葉も意外とわかりやすい。葬儀などの席でその宗派が浄土真宗とわかれば、意識して耳を澄ませば意外と耳に入るものである。ちなみに浄土真宗の僧は、いわゆる坊主頭ではないからすぐわかるはず。坊さんなのに髪の毛がある…などという場合は浄土真宗に違いない。

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ところでこの文章、私には一つの文学作品に思えてくる。人の生死を要約し過ぎてはいるものの、万人に当てはまる内容は、世の常人の常を文字に化かした一つの形と言える。

文化…
 物事を文字に化かすから文化という
映太郎

そこには主人公もあらすじもない。しかし、省略された主人公は“すべての命ある者”だろうし、筋の通った人生なんてものだってどこにもないではないか。

人生の起承転結とは、
 人間の生老病死である。

 −・−・−・−・−・−

別名「白骨の御文章」とも呼ばれるこの文章が、火葬を終えお骨となった故人とその遺族の前で唱えられることを考えると、それはまさしく“残された者たち”への慰めの言葉と受け取れる。

参考までに原文も添える。
 御文章

夫(それ)、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。

されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず、一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。

されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり

既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

あなかしこあなかしこ。

蓮如上人 白骨の御文章
(御文章五帖目十六通)

6433人

彼らが亡くなったあの1月17日から今日で十年目だという。

NHKでは、阪神淡路大震災により“残されてしまった人々”の苦悩を伝える番組を夜通し放送していた。

−−−−−
後日追記…

誤解されそうな気がしてきたので、付け加えることにした。私は何も阿弥陀仏に深くおすがりしなさいとも言わないし、念仏すべきとも言わない。何にすがり、何を信じ、何を唱えるかは人それぞれである。私自身だって無神論者に近い宗教観を持っている。

ただ、この文章には、そんな一宗教の宣伝文句のような部分を差し引いても残る無常観が、さらりと書き記されていると思えたのだ。私にとっては、「クリスマスキャロル」に対する扱いとさほど変わりはない。
posted at 2005/01/17 05:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘雑録
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