ブログに吐き捨てられた痕跡

2006年03月11日
 五分も街を歩けば、そんなモノはいくらでも目に飛び込んでくる。タバコの吸殻、チューインガム、名も知らぬ他人の唾…。

 それどころかマンションのロビーですら、ポストはピンクチラシで溢れ、誰も読まない宗教新聞が管理人室前のカウンターで読み手を待っている。

 いやそもそも出掛けなくとも、一週間に何回かは何かしらの営業や勧誘が訪れ、こちらの都合も考えず自分達の都合や自分達の売り文句だけをまくし立てる。

 なんだかなぁ…。
 


 自分のブログを開設して以来―ちなみにそろそろ2年近くにはなるが―その投稿してきた日々を振り返ると、ブログにおいても何か似通ったモノが見受けられるから面白くまた悲しい。 

 記事を投稿すればたちまち、電話ボックスのピンクチラシのごとくエロトラックバックがペタペタと貼り付けられ、連絡先のメールアドレスには次から次へと、何かしらの勧誘メールが送りつけられる。

 コメントにしても同様。コメント御礼にと訪れてみれば、単なる商用サイトだったり、訪れるまでもなくコメント欄にアフィリエイトシステムの宣伝リンクを貼り付けたり。

 なかには悪意さえ感じ兼ねない―どこか街角に吐き捨てられた唾のような―読み手つまりはブログ管理者であるコチラの気持ちを逆撫でるだけでしかない、それもさらには平然と名無しで書かれたコメントさえ見受けられる。

 まさしく街角の地面で気色悪く泡立つ唾のように、誰かが何かを吐き捨てていったらしい痕跡。

 旅の恥は掻き捨て…などという嫌な言葉もあるけれど、吐き捨てられ書き捨てられたごとくの一部のコメントは、書き手と読み手、一体どちらの恥なのか。確かなことは、その痕跡が後々まで残るのは読み手であるコメントされたブロガー、つまりはこちら側ということ。

 なんだかなぁ…。



 名も無きコメントはどこか返答しずらいものではあるが、名前の有無に限らず異議異論を真正面からぶつけてくる来訪者もまた、かなり身構えてしまうものである。

 しかし、そのコメントの残し方次第では、意見の相違とは全く別の次元で、紳士的な態度に共感できるものでもある。 

 悪意まで行かなくとも、と或る記事に対しかなりの異議を唱え、私の気持ちを酷く逆撫でたコメントを記した一人のブロガーがかつていらっしゃった。その異論者は特別であった。しっかりと名前を記し、そして彼のブログへのリンクをちゃんと残していったのである。

 吐き捨てられたようなコメントに少し戸惑いながらも、恐る恐る相手のブログを訪れてみると、何か鏡を見るように、そこには辛辣なほど正直に持論を書き綴るブロガーが待ち受けていた。

 ふむ、意見の相違が問題ではないのだろう。意見が例え正反対であろうと、その姿勢に共感できる相手もいれば、例え意見が一致しようが、その書き方一つで共感できない相手もいるのかも知れない。

 意見までいかなくとも、何でもない誰かの一言のコメントが、丁寧に書き綴られた言葉に見えることもあれば、吐き捨てられた捨て台詞に見えることもあるのだ。

 そのコメントがどんな想いを込めて吐き捨てられたのか。考えたくもないコメントが、馬鹿正直にも削除できずにいくつか残っている。

 なんだかなぁ…。



 リンクを必ず残してくれとは言わない。ブログを持っていない人だっているだろうし。

 名前を必ず残してくれとは言わない。ハンドルネームすら決めていない人だっているだろうし。

 お褒めの言葉だけ残してくれとは言わない。意見の違いがまったく無いほうがおかしいな事なのだろうし。

 ただ、吐き捨てるようなコメントを、それも名無しで書くくらいなら、コメント投稿ボタンを押す代わりに、さっさとブラウザを閉じてくれていいのにと思ってしまうものである。

 そんな願いを読み手に申し出ることは、それほどに贅沢なことであろうか。

 なんだかなぁ…。



 とはいえこんな記事を書いてしまうと、誰も身構えてコメントなど残す気にもならぬかも知れぬ。

 それでもコメントを期待する自分は、やはり贅沢なブロガーかも知れない。

 なんだかなぁ…。
posted at 2006/03/11 13:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 電脳批評
この記事へのコメント
人との付き合いは相性に尽きる。プログも居心地が良いと又寄せてもらいたくなる。囲炉裏端でお茶をいただいてる感じがする。前に中傷されてから自分のプログは止めてしまった。つれづれなるままにコメントさせていただきたい。
Posted by バジル at 2006年04月02日 17:54
>『はじめまして...』

 バジルさん、はじめまして。コメントをいきなり幾つも頂き、ありがとうございます。

>『私も会ったことのない母方の祖父・曽祖父に会いたいとよく思います。母からよく話しを聞いていたから...大好きな母の尊敬する二人だからきっと...会いたい...会いたいな〜』

 私は思います。きっと、廊下側の教室の窓から、こっそりこちらを覗いているのだと。私の死生観はそんな感じなのです。

 そんな死生観については、以下の記事でも記してますから、暇つぶし兼ご参考程度にどうぞ。

 2004年11月15日≪真っ白な問題用紙≫
 2004年11月16日≪そこに持って往く物とは?≫

>『太田光の向田邦子を熱く語る姿を見て驚いた。そう、太田の又別の一面を覗いた気がしたからだ。妹の和子の書いた邦子の恋人の話、なんだか邦子にあのような恋人がいたことに後に救われた気持になった。』

 私も太田氏のそんな一面には驚きました。
 そう言えば彼も、一時期脚本家を目指していたとかいないとか…。

 ところで、普段片付けなどしない人間が片付けをするとなんて話を聞くと、向田氏の最後の旅立ちの話をいつも思い出しますね。
 あの旅立ち(台湾への旅行)の仕度をしている時の彼女のことを考えると、人は無意識にも自らの死を予見してしまうのではと思えてなりません。

 家族や親戚の結婚や出産がある年は、身内の不幸もよく重なるという話をよく耳にします。何か…、何かのタイミングを待っているような、そんな気がしてならないのです。

 私の伯父は、生死の境を彷徨った昏睡状態が幾日か続いた後、私が新婚旅行から戻った日に亡くなりました。
 それは、まるで待っていてくれたようでした。

>『ここ数年こんなことを思った。人の死とは”存在しないことを認めていく作業”なのではないかと...
そう、今まで存在していたものが瞬間移動で温もりを残して消え去る。暫く涙は出なかったが、ある日スーパーで故人の好物を偶然に見つけた時にその作業を初めてした。涙が次々と溢れて止まらず...』

 その点、つまりは存在するかしないのか、それに関しては、私は存在すると信じてますので、微妙ですねぇ。
 どこに存在するか、どのような状態で存在するか。理解できないモノは存在しないとすれば、存在しないということになってしまいますが、存在証明できないから存在しないとは言えませんからねぇ。

 具体的な話としては、微細な電磁気とか磁場なんてモノがそのうち証明してくれるのではと思っています。

 心臓を移植された人が、元の持ち主のナニかを感じたという話を聞いて以来、私は神経ネットワークで発生した磁場のようなモノに関心を持ち始めました。
 もしや魂と呼ばれるモノが着床していた痕跡が、磁場として残るのではという話です。
 無知な素人の無駄な想像ですけどね。

>『人との付き合いは相性に尽きる。プログも居心地が良いと又寄せてもらいたくなる。囲炉裏端でお茶をいただいてる感じがする。前に中傷されてから自分のプログは止めてしまった。つれづれなるままにコメントさせていただきたい。』

 確かに!
 時に痛いコメントもありますね。

 先日も「どうでもいいけど、このコメント無知すぎる…」などと書かれ、かなり凹みましたな。とはいえ、そのコメントを削除する勇気はありませんでした。逃げてるように思えたので。

 まぁ何度お見えになってもお茶は出せませんが、つれづれなるままにまたお越しください。

 うは、記事みたいに長いコメント返礼になってしもた。でもね、コメントがぴったりと止まり静かな日々が続くと、記事を書く気力も萎えまする。

 コメント、ありがとうございました。
Posted by 映太郎 at 2006年04月03日 00:02
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。