ご無沙汰な父の不意の音沙汰

2006年03月05日
 先日、思わぬ人から電話があった。取り損ねた受話器の向こうで、留守録に向かって喋り始めた独り暮らしの年寄りは、少しニヤけた声で短く用件を告げ余韻も残さずガチャりと電話を切った。
「あぁ、ワシですがね。ワニですがね。えぇと、電話下さい。どうしてるかなぁと思って。それだけです。ガチャ、ツーツーツー」
 まったく……、あっさりした人である。余韻を全く残さぬ電話に、妙な余韻が残った。まぁ一応元気らしいからいいか。いやそれとも、ありゃ寿命かぁ?、……。
 
 誰が言ったか、音沙汰無きは事無き証拠。とはいえ、この音沙汰、何年ぶりだろうか。最後に会ったのはいつだったのか、いや電話でさえ最後に話した記憶がいつのことだったのか、あまりにご無沙汰でほとんど覚えていない。
 ちなみに、ワシはともかく、ワニとは、私が幼い頃に使っていた父親の自称である。
 四十年近くも前の話、アニメ「ポパイ」の中で、ポパイは現れたワニをいとも容易く手なずけ、腹をくすぐってやっつけた。
 その回を見て以来、父は何かと「ワニワニ」と言っては私の腹を楽しそうにくすぐり笑った。
 それにしても、父親の口から「ワニ」という言葉を聞くのも、考えてみれば何十年ぶりのことである。
「ふむ、やっぱありゃそろそろ寿命か……」
 ふとそんなことを考えてから少しだけ自己嫌悪に陥った。

 父は皮肉やイヤミの塊のような人間である。おまけに遠慮や気配りなどとはまったく無縁で容赦ない。そんな父に対し、ふとそんなことを考えた自分が親譲り以上に容赦無い人間に思え、余韻無き電話の余韻は不意に微かな不安に変わった。
「あの時すぐに電話してればよかったのに…なんて思うのもイヤだしな。電話してみるか」

 不安を抱きつつ、電話を掛けたのは一週間後のことである。父は生きていた。まったく……、脅かすなよな。普段まったく音沙汰無い者が突然電話なんてするから、こっちは柄にも無く心配しちまったじゃねぇか。まぁさすがにそんなことは容赦ない私でも本人には言わなかった。

 電話を切って受話器を見ると、一時間五十五分と表示されている。そんなに話したのか。
「あぁ、これが最後の会話になるんだろうか。録音でもしとけばよかったな」
 容赦ない息子の想いは、容赦ない父のようにまったく容赦なかった。
posted at 2006/03/05 04:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑題雑想
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