道ありき<青春編>―三浦綾子著

2009年11月28日
 11月28日、こんな本を読んだ。

道ありき<青春編>―三浦綾子著/新潮社―新潮文庫 
 
 
 
 
  道ありき<青春編>

 三浦綾子著
 新潮社/新潮文庫
 
 敗戦による混乱の中で、自分自身の教えることに確信が持てずに、教壇に立つことはできない≠ニ7年間続けた教職を辞した24歳の著者は、癒しようもない虚無感からの二重婚約、さらには肺結核の発病により、絶望の底へ突き落される。本書は以来13年間の闘病生活の中に、自己の青春、愛、信仰を告白した心の歴史であり、著者の歩んだ苛酷な日々に、圧倒される感動の書である。(裏表紙紹介)

 三部作の第三作を始めに読んでしまったがためにどうにも落ち着かず、結局は第一作へ戻ることとなった。
 


 戦災の悲惨な状況と治癒の当てもない自らの病状とにすべてに投げやりになり、何もかもに懐疑的になってゆく掘田綾子。

 “あなたのは懐疑主義のための懐疑主義だ”とまで言われるほどに、すべてに否定的になっていた彼女の前に、ふと幼馴染みでクリスチャンの前川正が現れる。彼はおっとりとした性格で、彼女に対し静かに信仰を説きはじめる。

 はじめはクリスチャンなんて偽善者よとか、精神的貴族みたいなものよなどと否定していた彼女はやがて、伝道書の教えに興味を抱くようになる。彼女がしきりに感じていた、人の人生がいかに虚無的であるかが、伝道書には繰り返し記されていたという。

 一旦興味が湧くと、漠然と肯定も否定もしない者よりも逆に、彼女は一気に伝道書にのめりこんでいった。別の意味で用いられていた言葉ではあるが、“悪に強い者は善にも強い”のごとく、強く否定していた故にか、いったん興味がわき、否定していた想いが一つ覆されると、疑っていた事柄すべてが一つひとつ裏がえるように信仰に目覚めていく。そしてそれと同時に、クリスチャンである彼への尊敬の念は、やがては静かな恋愛感情と重なっていく。



 時代ゆえなのか、クリスチャンゆえなのか、それとも元来の彼の性格ゆえなのか、今の恋愛観からすると彼の彼女に対する姿勢はまことにじれったいものだった。中でも病室の彼の姿勢を描いた一節が印象に残った。

 入院中の彼女の見舞いがてら、彼女のベッドの下に布団を敷き、そこで一緒に寝すむ彼の仕草が描かれている。(229頁)

 消灯の後、下からそっと手をのばして、わたしの髪におずおずとふれることもあった。これが、クリスチャンである彼の、わたしに対する精一ぱいの愛撫でもあった。

 現在の恋愛小説からしたら、想像だにできない純粋な恋愛模様である。



 しかし、病気に苦しむ彼女を励ます彼もまた病気に苦しむ身だった。
 肺の手術で摘出したという肋骨を一本携えて彼女を見舞う前川に、彼女はその肋骨を下さいと願う。その骨を大切に枕元に置き、今度は彼女も彼の治癒を願うのだが、やがて…。

 彼との恋愛の結末を、彼女がいくつも歌にしている。

 マーガレットに 覆われて
  清(すが)しかりし 御柩(みひつぎ)と
   伝へ聞きしを 夢に見たりき

 最愛の恋人の葬儀さえ人づてに伝え聞くという病床の寂しさが堪らない。



 だがその恋愛の結末は、この物語の結末ではなかった。
 ある日、彼女の前に亡くなった前川正そっくりの男性三浦光世が現れる。その容姿だけでなく、性格や信仰の姿勢までもがあまりに似ており、そして周囲さえもそっくりだという男性に、彼女ははじめどこか不安さえをも覚えるが、やがて心魅かれていく。前川正が残した言葉を忠実に受け入れながら。

 生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。

 彼女は前川が遺書に残したそんな言葉に従い、彼との思い出や彼とのすべてを優しく受け入れようとする三浦光世を、ゆっくりと受け入れていく。

  生きることは苦しく、また謎に満ちている

 間近に迫る自らの死を覚悟して、人はそこまで達観した言葉を残せるものなのか。私は前川正という男性に強く憧れる。



 『道ありき』三部作とは、第一部『道ありき―青春編』、第二部『この土の器をも―結婚編』、第三部『光あるうちに―信仰入門編』の三作。残り一冊。
 
200911280545
posted at 2009/11/28 05:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍批評
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