命日にふと思い出す祖父の事

2006年01月28日
 2006年1月某日、ふと父方の祖父のことを思い出した。

 私はその祖父に会ったことがない。家族の話には散々聞いているものの、直接には会うことのなかった祖父。

 私の今生において一瞬たりとも、この世に同時に存在することのなかった祖父。写真では何度も顔を見ていても、生の声を聞くことのなかった祖父。私が生まれる何年も前、年の離れた兄ですら生まれる一年前に亡くなった祖父。

 突然そんな祖父のことを思い出したその日、私は祖父の命日がいつだったかふと気になり調べて驚いた。

 「今日だったのかぁ…。
 それもきっかり50年前の今日だったとは…。」
 


 故人の事を思い出すだけでその故人の供養になる。

 私は以前からそう考えていた。だが、ふと自分の微かな祖父の記憶自らが、私の肩をそっと叩いたような気がして驚いた。

 私には霊感などない、その手の姿も見えたことなどない。

 だがそのくせ、死後の世界も、生まれ変わりも、シンクロニシティも、霊感も、そして魂の不滅さえも当然のように信じている。そんな私でさえ、やはりふと巡り合わされ感じた偶然には少々驚いた。

 はて、祖父はどうやって私の記憶を突っついたのか。不思議なものである。
  
 ところで、祖父の命日を一体どうして調べたか。父や母に確かめれば早いのだが、実はもっと早い方法があった。インターネットで検索したのである。

 歴史教科書に載るほどの人ではないが、戦時中の史実に関しちょっと深入りしたような書物にはいくらでも名前が載っている人物である。

 検索を掛けると案の定、生年と没年が記載されたサイトにすぐに出会えることができた。

 あぁこんなことだから、私は祖父に海馬を突っつかれたのかも知れぬ。



 昭和史を記した書物の、それもかなりの専門書になら載っているような祖父。だが私が尊敬しているのはそんな史実にはまったく関係ない祖父の一面だった。 

 厳格だったという。それでいてとても優しかったという。

 娘である叔母や息子である父が、その史実に現れるような祖父のことをよく語るのに比べ、なぜか母だけは語る内容が異なるのは面白い。

 “ほにゃらら家”という考えで言うなら、嫁という立場であった母が、その祖父の、史実とは関係ない“優しさ”をよく聞かせてくれた。

 話を聞けば聞くほど、一度会ってみたかったというジレンマに陥る。

 今は亡き人を思い出すことこそ、もっともシンプルな供養だとすれば、忘れていた私が思い出すように突っつかれたことはちと情けないことである。だから今、私は祖父のことを思い出している。

 とはいえ、会ったこともない故人を思い出すなんて、まぁそれもまた難しい。

 夢にでも出てきてくれれば
  じっくり話しもできるのに…。

 ま、たまには墓参りせよなんて、説教されるのがオチであろう。そんな説教でも構わない。祖父の声が聞けるのなら…。
posted at 2006/01/28 18:02 | Comment(1) | TrackBack(0) | 死生私観
この記事へのコメント
はじめまして...私も会ったことのない母方の祖父・曽祖父に会いたいとよく思います。母からよく話しを聞いていたから...大好きな母の尊敬する二人だからきっと...会いたい...会いたいな〜
Posted by バジル at 2006年04月02日 16:59
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