年齢と共に枯れてしまうモノ

2005年12月09日
 半月ほど前のこと、と或るテレビ番組で面白い言葉を耳にした。

 どこの土地だったかは忘れたが、笑福亭鶴瓶が美味しいそばを求め彷徨い歩く。ふと立ち寄った先の人がそばを打ってくれるということになり、彼はその人のそば打ちを見守っていた。

 男性はそばの粉に水を振っている。手を止めない彼に鶴瓶が色々話しかける。ふと蕎麦に対する好奇心を鶴瓶が語った。

 「最近やたらと蕎麦が気になるんですわ」

 蕎麦の粉と水玉を両手で切りながら男性はふと答えた。

 「そりゃ、食が枯れはったんですわ、きっと…。」

 食が枯れる? …何?
 


 そんな言葉、40年ちょっとの人生で私は初めて聞いた。一緒にテレビを見ていた彼女に聞いてみる。

 「“ 食が枯れる ”って言う? どういう意味?」

 「あまり言わないけど、食に飽きたってことじゃないの?」

 彼女曰く、ゴテゴテしたグルメっぽい料理や凝った食材の贅沢な味覚に飽きてしまうことを言うらしい。あっさりとしたものやシンプルで素朴な味覚が恋しくなるなんていうのも、もしかすると食が枯れてしまったということになるらしいというのだ。

 ふむ、何か思い当たる気がする。

 私は特にグルメでもないし食に贅沢はしない。食には大して拘らない人間である。いやほとんど拘らないといっても過言ではない。

 だがそんな私も、若い頃にはさほど食べようともしなかった蕎麦が、鶴瓶のごとく最近やたらと気になりだしている。

 私の食は枯れてしまったんだろうか。



 私が蕎麦を食べる時。

 以前からつゆをほとんどつけなかったが、最近その傾向が特に著しくなった。取り上げた蕎麦の先端を一センチほど浸すだけである。そば自体の味を感じたいと思うからだ。

 それを江戸っ子気質とも言う人がいるが、お陰でつゆはまったく減らない。そのせいで蕎麦湯を貰った時は空の器も頼むことになる。蕎麦湯さえそのままで飲みたいのだ。

 私がパスタを食べる時。

 ごてごてとしたミートソースは元々あまり用いなかったが、最近では何の味付けもしないパスタを食べることがよくある。パスタ自体の味を知りたいからである。

 ちなみに以前大久保のダーツバーで珍しいピザを食べたことがある。何ものっていないピザである。チーズすらのっていないそのプレーンピザは、皮肉にもそれまでに食べたピザの中でもっとも印象的で忘れられないものとなった。

 寿司を食べる時。

 以前からあまり醤油を使わなかったのだが、最近ではまったく使わなくなってしまった。ネタ自身の味をじっくりと味わいたいからである。時には魚臭さが目立つこともあるが、それも味の内。魚食べて魚臭いのは当たり前ってもんなのだ。

 肉を食べる時。

 肉臭さを苦手な人も多いが、やはりわずかな塩だけで食べるのが一番気に入っている。オージービーフやラム肉などはかなり肉臭く、でもそれが臭くて堪らない。

 食が枯れるなんて話以前に、塩分摂取を気にしすぎとも誤解されそうではあるが、元々塩分過少な食生活だから塩気など気にもしていない。拘りが強まると共に何かをより多く求める人も居れば、拘りが強まると共に何かをより削る人もいるということだろうか。



 これだけ拘っててどこが枯れているのかとも言われそうであるが、或る意味食材の素朴さや料理のシンプルさ、素材の本来の味にその拘りが移っているところは、やはり彼女の言う“食の枯れ”とも言えるかも知れない。

 年齢と共に人は色々とまたあちこちが枯れると人は言うが、枯れる場所や枯れ方もまた人それぞれに異なるのだろう。

 まったく寂しい話であるが、かくいう私は年が変われば四十路も半ばに差し掛かる。あとは何と何が枯れるのか。
posted at 2005/12/09 05:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 味覚批評
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